2008年10月31日 (金)

UNICORNⅠ For Reading

ユニコン Supplementary Reading
Silent Spring and Rachel Carson ─
沈黙の春とレイチェル・カーソン
A Fable for Tomorrow (form Silent Spring) by Rachel Carson
「明日のための寓話」(レイチェル・カーソン著『沈黙の春』より)


かつてアメリカの中央部に生命あるものがみな環境と調和して暮らしているように見える町があった。町は穀物畑や果樹園の丘のある豊かな農場の真ん中にあった。春には緑の野に白い花の霞がたなびいた。秋には松の木々を背景にオークやカエデ、カバの木々が鮮やかに紅葉した。秋の朝霧に見え隠れしてキツネが丘で鳴き、シカが野原を音もなく横切った。
沿道では一年のほとんどを通じて青い茂みや野の花が訪れる者の目を楽しませた。冬でさえ沿道は美しい場所だった。無数の鳥が雪の上に突き出た枯れ草の実や種をついばみにやって来た。実際、その田舎は鳥の数と種類が豊富なことで有名だったし、春と秋の鳥の渡りが盛んなころには人々がそれらを見に遠路はるばるやってきた。他に小川で魚釣りをしに来る人もいた。小川は丘から冷たく清らかに流れ出し、マスの泳ぐ日陰のある池を作った。ずっと昔、最初に移住者が家を建て、井戸を掘り、家畜小屋を作ったときからここはそんな様子だったのである。

その後、この地域に奇妙な疫病が忍び寄り、すべてが変わり始めた。その地域社会を何か悪い魔法が襲っていた。得体の知れない病気がニワトリの群れに蔓延し、ウシやヒツジは病気になって死んだ。いたるところに死の影があった。農民は家族に何人も病人が出ていると話した。町で医師らは患者たちの間に現れた新しい病気によってますます困惑した。大人たちだけでなく、子供たちの中にも急死する者や変死する者がいた。子供たちは遊んでいるときに突然発病し、数時間のうちに死ぬことがよくあった。
奇妙な静けさだった。たとえば鳥はどこへ行ったのか?多くの人々が戸惑い不安を感じて鳥のことを話した。裏庭のえさ台はさびれた。わずかにいる鳥はどこで見かけても死にかけていた。彼らは激しく身を震わせ飛ぶことができなかった。声のない春だった。かつて夜明けの鳥の声のコーラスで鼓動した朝も、いまや物音一つしなかった。野原や森や沼にはただ静けさしかなかった。
農場ではメンドリが卵を抱いたがヒナはかえらなかった。ブタを育てられない、子豚は一度に少ししか生まれないしその子豚もほんの数日しか生きない。農民はそう愚痴をこぼした。リンゴの花は咲き始めていたが、花の間をぶんぶん飛びまわるハチがいなかったので、受粉が行われず実がならなかった。

以前はあれほど人目を引いた沿道も今やまるで火に焼き尽くされたかのように茶色く枯れた草木が並んでいた。そこもまた静かだった。そこはすべての生物から見捨てられていた。小川でさえ生物はいなかった。釣り人ももはや訪れることはなかった。魚がすべて死んでしまったからである。
軒下の樋や屋根のこけら板の間には白い微粒の粉がまだらとなって残っていた。それは数週間前に屋根や芝生、野原や小川に雪のように降り注いだのだった。この病気に苦しむ世界で新たな生命の再生を沈黙させたのは魔法でも敵の攻撃でもなかった。人々が自らそうしたのだった。
この町は実在するわけではないが、アメリカか世界のどこかでこのような無数の町は容易に見つけられるかもしれない。私はここに描いたすべての災難を経験した町があるとは聞いていない。けれどもこれらの災難のどれもがどこかで起こり、実在する多くの町がすでにかなり多くの災難を被っている。不気味な亡霊がほとんど気付かれることもなく忍び寄ってきており、この想像上の悲劇は簡単に私たち皆が知ることになるだろう悲惨な現実になるかもしれない。
すでにアメリカの無数の町で春の声を沈黙させてきたのは何なのか?この本で説明してみようと思う。


Silent Spring: Before and After
沈黙の春:前と後

『沈黙の春』を出版する17年前の1945年、レイチェル・カーソンはDDTの危険性に気付いた。彼女は大衆雑誌に手紙を書き、DDTについての記事を書こうと申し出た。けれどもその雑誌社は興味を持たず、カーソンはさしあたりこの話は打ち切った。
その後1958年、彼女は友人の一人からこんな手紙を受け取った。
去年の夏、殺虫剤を散布している飛行機が私たちの小さな町の上空を飛びました。無害な散布はその日、私のかわいい鳴き鳥を7羽殺しました。翌朝、もう数羽の死骸を拾いました。その次の日の朝、1羽のコマドリが木の枝からいきなり落ちました。これらの鳥は皆ひどい死に方をしました。さらに悪いことに、害のない虫はすべて死んだのに、私たちは夏じゅうかつてないほどの蚊に襲われました。野生生物と人間への影響が分かるまで、空中からの毒の散布を止めなければなりません。
この手紙はレイチェルのDDTへの関心を再び呼び起こし、彼女は1962年に『沈黙の春』を書いた。

カーソンは『沈黙の春』で、DDTのような化学薬品が土や水、野生生物、人間への影響に関する科学的研究がほとんどなされないまま使われてきたと指摘した。化学薬品は長期間土に残留する。それらは生物の体内に入り、中毒と死の連鎖の中である生物から別な生物へと移っていく。地下水流に入り込む化学薬品もある。この汚染水は様々なところに湧き出て植物を枯らしウシを病気にする。水の一部は人間が飲む井戸の中に入り込む。
『沈黙の春』は19626月に『ニューヨーカー』誌で始まり、連載された。それは全土に警鐘を鳴らした。もう一つの有名な雑誌である『タイム』誌は過度に感情的な言葉を使って大衆を脅かそうとしているといってカーソンを非難した。彼女の分析は単純化されすぎていて、間違いだらけだと彼らは言った。その雑誌によれば、彼女の考え方を不公正で一方的だと見なす科学者や医師もいた。「どこかで水に殺虫剤を入れるとあらゆる場所のきれいな水の安全を脅かすことになる」というカーソンの主張はばかげていると言った。またさまざまな企業もカーソンをヒステリックな科学者呼ばわりしたり、告訴すると言ったりして彼女を非難した。

1962
10月、本が出版された2週間後、カーソンはニューヨークの会議で発言した。そのころまでには『沈黙の春』はベストセラーリストに登場していた。彼女は非難に対し一度だけこう言及した。「私が明日にもすべての化学薬品を放棄して昆虫に世界を譲り渡したがっていると信じている人々がいます。こういうことを言う人は『沈黙の春』を読んでいないか、あるいはもし読んでいたとしても正しく把握していません。たとえしたいと思ってもすべての化学薬品を明日にも放棄することはできません。私たちができること、そしてしなくてはならないことは、できるだけ早く危険な化学物質を新しくていっそう効果的な方法へと切り替える計画に着手することです。」
ケネディー大統領はこの問題を調査するため特別委員会を設置した。彼らの報告書殺虫剤の使用19635月に発表された。それはレイチェル・カーソンの見解をおおむね支持した。それには、これらの毒を使用する際の危険性に関する科学的知識が十分にないこと、およびそれらは使用される前に安全だと証明されるべきということが書かれていた。
『沈黙の春』は、これまでの中でもっとも大きな運動の一つに発展する環境保護運動を引き起こした。レイチェル・カーソンは1964年に56歳でガンで死ぬまで研究と著作を続けた。アメリカでのDDTの使用は1972年に禁止された。/


2008年10月30日 (木)

UNICORNⅠ lesson10

ユニコン lesson10
Soseki In London ─
ロンドンの漱石


夏目漱石は文部省から派遣された研究生として約100年前に英国に行った。そのとき彼は33歳で熊本県第五高等学校の教師だった。19009月、彼は船で横浜を出発し、2ヵ月後にロンドンに着いた。
英国は当時、他の国々より発展していた。ロンドンにはすでに地下鉄網が張り巡らされていた。東京に最初の地下鉄ができる30年も前に、である。漱石の見るもの聞くものすべてが驚きだった。
彼は古本を買い、公園を散歩し、劇場に行って楽しんだ。彼はこのことを妻への手紙にこう記している。「君も劇場のすばらしいショーを見られたらいいのですが。あるショーでは60人くらいの女性が豪華な衣装を着て踊っているのを見ました。」
しかしながら、ロンドンでの漱石の生活はときどき困難だった。物価がとても高かった。授業料が高すぎるし授業も役に立たないと感じたので、彼は大学にかようのをやめてしまった。それにその町のことをよく知らなかったため、名所を見物しに出かけるときしばしば道に迷ったり違う電車に乗ってしまったりした。

漱石は自分の英語についてこう記している。「私の、話す能力は言うまでもなく聞き取る能力が十分でないのが残念だ。」彼は日本では英国人と話しをするのに大して苦労はしなかったが、ロンドンの人々はしばしばあまりに速くしゃべるので理解できなかった。彼はとくにイーストロンドンの労働者階級の人々の話すロンドンなまりが理解しづらいのを知った。
しかし、実際は漱石の英語は相当よかったはずだ。彼は演劇を理解できた。また英文学の個人教授も受けていた。彼が自分の英語に批判的だったのは、おそらく自分の英語が完璧であることを望んだからだろう。
当時の日本人の英語の能力に触れて彼はこう記している。「日本人は難しい本を読めるしたくさん難しい語を知っているが、口と耳ははるかに劣っている。もし将来多くの外国人が日本を訪れたら、私たちの英語は彼らとコミュニケーションを取るのに十分ではないだろう。」
残念ながら、100年たっても漱石の指摘したこの問題は解決されていない。

漱石は英国に2年間滞在した。滞在中、彼は5ヶ所の下宿に住んだ。家賃が高すぎたため、最初の2ヶ所はそれぞれ2週間ずつしか滞在しなかった。
3
番目の下宿は安かったが、数ヵ月後に家主が別な地域に引っ越して新しい下宿を開くことに決めた。漱石は家主はぜんぜん好きではなかったが、彼女の妹のケイト・ブレットは好きだった。家主と違ってケイトは物静かで思慮深い女性だった。ケイトが新しい下宿に移らないかと頼むと、彼は承諾した。
やがて若い日本人科学者の池田菊苗が越してきた。彼はとても明るい人物で、漱石は彼との付き合いを楽しんだに違いない。けれど数ヵ月後、池田は他の場所に引越し、それを機に漱石はもっといい下宿を探すことにした。彼は新聞にこんな広告を載せた。「当方日本人。文学趣味を有する英国人家庭の下宿を求む。N.N.W.SWの閑静で便利なアパートならなおよい。」

漱石は広告の返事をいくつか受け取った。1901年、彼は二人の年配の姉妹、リール婦人とその妹によって経営されていた下宿に引っ越した。姉妹は教養があり、環境も漱石に合っていた。彼は英国を去るまで1年半そこに住んだ。漱石はそこでかなり幸せだったが、多くのことに頭を悩ませた。
大学で始めて英文学を学び始めてからというもの彼は「文学とは何か?」という一つの簡単な疑問に取り付かれていた。彼はその明確な答え、すなわち人生の目的をまだ見つけていなかった。英国で彼は答えを見つけたいと思った。けれども実際、学問として英文学を研究することは、英国内でさえかなり新しい概念だった。
英国で半年間学んだあと、とうとう彼は独自の文学論を打ち立てなければならないと実感した。池田菊苗の論理的な思考法が彼にインスピレーションを与えた。それ以来、彼は人付き合いを避けて大半の時間を一人で読書や思索をして過ごした。その閉ざされた生活によりついに神経衰弱を引き起こした。


リール姉妹は漱石の精神障害のことをとても心配した。彼女らは当時英国ではやっていたサイクリングをしてみるよう勧めた。漱石はアドバイスに従いサイクリングを始めた。自転車で公園を走りまわっているうちに周囲の世界との接触を取り戻した。これが彼の精神状態を改善したのかもしれない。彼は自分の下手な自転車の技術のことをコミカルなエッセイ、「自転車日記」に書いてさえいる。
周囲の人々の親切のおかげで漱石は回復した。190210月、彼はスコットランドに1週間の旅行をした。それは英国滞在中に行った唯一の観光旅行で素敵な時をすごした。ようやく彼は生活に喜びが戻ってくるのを感じた。同年12月、彼が買った400冊の本と一緒に彼は日本へと出発し、19031月下旬に戻った。
漱石の書いたエッセイにこうある。「私のロンドンでの2年間は人生で最悪の2年間だった。」漱石は大いに苦労したが、その苦労から、後の著作に反映される多くの貴重なことを学んだのである。/


UNICORNⅠ lesson9

ユニコン9

Chagall シャガール

I and the Village 私と村

このシャガールの手による絵は奇妙なイメージで満ちている。なぜ大きな顔は緑色なのか?誰の顔なのか?なぜ小さなウシを別なウシの顔の上に描いたのか?人や建物もいくつか見える。そのうちのいくつかは上下が逆さまになっている。これらのイメージはどこから来たのだろうか?

絵の中で、シャガールは独特のおもしろい方法で自身の人生のいろいろな部分を表現した。ほとんどのイメージは彼の故郷での子供時代の思い出から創造された。右にある顔はシャガール自身である。─

シャガールは1887年にロシアの町、ヴィテプスクで生まれた。彼の家族を含め、その町のほとんどの人はユダヤ人だった。一家は貧しかったが、彼は幸せな子ども時代を送った。1907年、シャガールはサンクト・ペテルブルグの美術学校に行った。後の1910年、わずかなお金と大きな夢を持ち、美術を学びにパリへ出発した。パリにいるあいだ、彼はしばしば故郷の絵を描いた。”I and the Village” はそれらのうちの一つである。

Birthday 誕生日

飛んでいる若い男はシャガール自身で、ブーケを持った女性はシャガールの婚約者のベラである。もちろん、シャガールは飛ぶことなどできなかったし、首だってこんなに長くなかった。かれらのイメージは彼の至上の喜びを表現している。─

帰郷中の1909年、シャガールは初めてベラと出会った。一目ぼれだった。サンクト・ペテルブルグに戻る前に、二人は将来を誓い合った。ベラは当時わずか14歳だった。パリにいるあいだ、シャガールは次第に有名になっていった。1914年、彼はついにベラに会いに帰郷することに決めた。

数年後、ベラはこの絵にまつわる話を語った。「彼の誕生日だったので、彼に花を買っていったのだけれど、彼はその日が自分の誕生日であることをすっかり忘れていました。不意に『動かないで』と言って彼は絵を描き始めました。私たちは二人とも胸をどきどきさせていました。描き終えると、彼は『これを誕生日と呼ぼう。結婚式の日までにあと数枚描き終えてしまおう』と言いました。」

彼らはこの絵が描かれてから約3週間後に結婚した。

The White Crucifixion 白い磔刑

シャガールの作品について考えると、明るく美しい絵が心に浮かぶ。しかしこの絵は暗くて悲惨な雰囲気を表現している。ユダヤ人の建物に火が放たれている。中央にはイエス・キリストのはりつけが見える。またユダヤ教のラビも見える。これは単なる宗教的絵画なのだろうか?─

シャガールは美しいイメージの世界にだけ住んでいたのではない。彼の絵は時として周囲の無秩序を表現した。彼は若かりしころ、第1次世界大戦とロシア革命のあいだに辛い目に何度もあった。

1935年、シャガールはポーランドを訪れ、ユダヤ人がひどい扱いを受けているのを知ってショックを受けた。彼はユダヤ人に迫る大きな危機と第2次世界大戦を予見した。彼はその危機を世界に警告する絵を描いた。その後すぐ第2次世界大戦が勃発し、ホロコーストが始まった。1940年、ナチスがパリを占領した。彼は身の安全を危ぶみ、1941年にアメリカに移住した。

Around Her 彼女をめぐって

この絵は美しく、同時に悲しくもある。左側にいる芸術家はシャガールである。彼の頭はさかさまで気が動転しているように見える。右側の女性はベラである。なぜ彼女は泣いているのだろうか?ボールを持った少女は彼らの娘のアイダかもしれない。ボールは占い師の水晶玉であり、彼らの故郷の風景が入っているように見える。─

19449月のある日、ベラは急に病気になった。二日後、恐ろしいことが起こった。ベラが死んだのである。死ぬ前は彼女は楽しく充実した生活を送っていた。彼らは幸せな生活は初めて出会ってから35年後に終った。シャガールは絵や美術、人生への興味を一切失った。彼はその後の9ヶ月間、筆を手に取らなかった。ついに、彼はベラの記憶を絵に描き始めた。“彼女をめぐって”はベラの死後、彼が最初に描いた絵である。彼はこの絵を1985年に死ぬまで自宅に置いていた。/


UNICORNⅠ lesson8

ユニコン lesson8

Are We Alone in the Universe? ─私たちは宇宙でひとりぼっちなのか?


ある夜、宇宙船が地球に着陸した。大きな目、奇妙な首、長い指をした小さな異性人が宇宙船から出てきた。宇宙船が離陸したとき、1人の異性人が置き去りにされた。その後、エリオットという名の10歳の少年が彼を見つけた。彼は異性人に”Extraterrestrial”を省略してETという名を付けた。
エリオットとETはとても仲良くなり、一緒にたくさんの面白くて楽しい冒険をした。ついにETが宇宙船と交信できる装置を組み立てると宇宙船が彼を迎えに戻ってきた。
これは1982年にスティーブン・スピルバーグによって製作された映画、ETの話である。この映画がとてもヒットした理由の一つは「私たちは宇宙で一人ぼっちなのか?」という疑問に人々が関心を持っているからである。
私たちの太陽系では、火星は生命が見つかるかもしれない唯一の惑星であるようにずっと思われてきた。1906年、アメリカ人宇宙飛行士のパーシバル・ローウェルが火星の表面を走る運河、全部で109の運河を目にした。彼は知的生命体がそれらを造ったと信じた。その運河はただの勘違いだと分かったが、火星人の存在を信じる気持ちは長年にわたって消えなかった。

大勢の人々が他の惑星に生命がいると信じているが、科学者は証拠が必要である。1996年、NASAの科学者がそのような証拠、約13,000年前に南極の氷床に落下した火星の岩石を発見したと主張した。彼らはその岩石が1,500万年前に彗星によって火星の表面からたたき飛ばされたと信じている。その科学者らはテストによってバクテリアの微小な化石があることが分かったと報告した。「もし化石が本物なら、初期の火星に原始的な生物がいたという強力な証拠になる」と彼らは結論を下した。懐疑的な科学者らは「もし岩についている形が化石だったら、それは生物の証拠になるだろう。しかしおそらくその形は自然にできたものであって化石ではないだろう」と言った。
2000
年、さらなる証拠が火星自体からやって来た。NASAによって打ち上げられたマーズ・グローバル・サーベイヤーが多くの長い溝のある谷が写された火星の写真を送り返してきたのである。その溝がずっと昔に流水によってできたということはありえる。現在、ほとんどの科学者は地表の下に氷があるということに同意している。しかしそこに何らかの種類の生物がいるとしても、それは非常に単純な有機体にすぎない。“ET”はそこには生きてはいない。

科学者はさまざまな方法で異性人との接触を試みてきた。1970年代にパイオニア10号とボイジャー1号、2号が他の惑星に向けて打ち上げられた。それぞれの宇宙船が地球と人類に関するメッセージを宇宙の遠くへと運んでいる。
これらのメッセージはビンにつめられ海とてもとても大きな海に投げ込まれた手紙に似ている。パイオニア10号は今、はるか遠くの宇宙空間を旅している。それは8万年後に地球から最も近い星の一つ、アルファ・ケンタウリに着くだろう。ボイジャー1号、2号は26千年旅した後も依然として銀河系の中を旅しているだろう。
ここ地球で、SETI所長のジル・ターターと彼女の科学者チームは銀河系に知的生命体が存在する証拠を探している。彼らは巨大な電波望遠鏡を使い、信号を求めて空を探している。そのうちの一つがプエルトリコの山頂にある。それは地球上で最大のものである。毎年、SETIチームは私たちの太陽に似た数百の星を調査している。彼らは宇宙からの最初のこんにちはを待っている。

「私たちの銀河系には約4000億の多くの星があります」とジルは言う。「おそらくそれらの10分の1は私たちの太陽にとてもよく似ています。また、宇宙には私たちの銀河系の向こうにさらに1,000億の銀河系があります。知的生命体が存在するかも知れない場所はほかにもたくさんあります。すでに証拠が得られていたらいいのにと思いますが、いつかは見つかるだろうと信じています。」
ときどき、世界中のSETIの研究者たちは不思議な信号を受信する。これらの信号のほとんどは人工衛星やレーダー網、あるいはラジオ局やテレビ局によるものである。しかしかなりのものが依然として解明されていないままである
研究者たちが宇宙から集めたデータの量は膨大である。それをすばやく分析するため、1999年にSETI@homeと呼ばれるプログラムが作り出された。このプログラムをダウンロードすることによって誰でもネット上で調査に参加できる。SETIの望遠鏡からきたデータはボランティアのコンピュータによって分析され、カリフォルニア大学の中央コンピュータに送り返される。
私たちはまだETを発見していないが、異星人からの最初の信号をコンピュータで受信した人は歴史に名を残すだろう(歴史書にはコンピュータで異星人からの最初の信号を受信した人のための余白がとってある)。[その人が誰になるかは]誰も分からない。もしかしたら君かもしれない。/


UNICORNⅠ lesson7

ユニコン lesson7

One Step Beyond ─一歩向こうへ


30
歳のとき、私は昔の戦闘地域の地雷を除去するボランティアグループであるHALOの一員になった。この決断は両親に影響されたものだと思う。私が幼かったとき両親はさまざまなボランティア活動をしていた。
私は1962年にイングランドのソールズベリー近くの村で生まれた。父は農場経営者で、私も農場経営者になるつもりだった。しかしながら農業大学卒業後に考えが変わり軍隊に勤務することにした。
1989
年、ベルリンの壁が取り壊されたとき私は軍隊を除隊し、金融会社に勤め始めた。私は仕事でかなりうまくやっていて高い給料を得ていた。しかし私の生活には何かが欠けていた。目的がなかったのだ。自分のためだけに生きるより、他の人々を助けるために何かをすることの方がずっと重要だと信じ始めた。
そのときHALOについて読んだ。参加することに決めた。始めに彼らは私に地雷の除去の仕方を教えた。その後、私はカンボジアへ、それからもモザンビークへと送られた。

1995
37日モザンビーク北部
世界には1億個以上の地雷がある。毎日70人の人々が地雷を踏んで怪我をするか命を落とすかしている。私がしている仕事はやりがいのあるものだと強く感じていた。
ある日、一人の若者がモザンビークで地雷を除去している時に死んだ。翌日、私はどうしてそのような悲劇的な事故が起こりえたのか調べていた。日が高く上りとても暑かった。その仕事は非常に慎重な、気長な作業を要した。体がひどく弱っていると感じたのも不思議はなかった。日を浴びすぎたなと思った。どこかで休む必要があった。道を3歩下がった。3歩目でバン。私の体は空中に放り上げられ、それから落ちて地面に打ち付けられた。
すべてが静寂に包まれた。私はうつぶせに横たわっていた。右腕を上げようとしたが動こうとしなかった。ひどい怪我を負っていた。右足を見下ろした。ひざから下がなくなっていた。

1995
4月ロンドン
自分があの事故を生き延びたことが信じられなかった。しかし「死ぬのが一番簡単なことかもしれない」と考えることもあった。南アフリカの病院で右腕のひじから下を切断された。その後、ロンドンの病院に移された。
私は義手の使い方を習い始めた。すぐにパソコンを使ったり簡単なことをしたりすることができるようになった。しかしながら一番の難題は義足でどうやって歩くかということだった。とても難しく、痛かった。イライラして落ち込んだ。できるだけ早く退院したかった。
ある日曜日、テレビでロンドンマラソンを見た。勝つことがランナーの唯一の目的だった。不意に、明確な目標を持つことがとても大事だということを悟った。翌年のロンドンマラソンで走ることに決めた。いまや(到達すべき)明確な目標ができてうれしかった。その日の夜はぐっすり眠った。
その後、マスコミが私の計画を聞きつけた。そのマラソンはカンボジアの地雷犠牲者のためのお金を得るチャリティ・イベントになった。

1996
414日ロンドンマラソン
その日がやって来た。私の初マラソンはかなり順調に進んでいった。しかし29キロ地点に達したところで背中が痛み、ひざと義足の間から血が出ていた。それでも5時間29分でマラソンを完走できてとても幸せだった。
それ以降、世界中の他のマラソンを走った。(私が走った)どこの国でも人々が沿道に並び私を応援してくれた。このすべてが地雷反対運動への関心を高めるのに役立った。
1997
年、すばらしいニュースが入った。地雷禁止国際キャンペーンがノーベル平和賞を受賞したのだ。その上、1998年の長野オリンピックの役員が開会式で聖火を運ばないかどうか聞いてきたのだ。私は喜んで引き受けた。
競技場に入ると子供たちが私の周りで楽しそうに踊りだした。かなり感激したが、彼らは(私が知っている)足が一本の、あるいは足がない大勢の子供たち地雷事故の犠牲者たちを思い出させた。彼らがテレビを見ていて、そして私が彼らのために走っていることを知って欲しいと思った。/