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2008年6月14日 (土)

PRO-VISION READING lesson7

プロビジョンR lesson7

Lucky Man

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ある時点で質問に答える人物は必ず体を傾けて弁護士とひそひそ話す。そういうテレビで何度も見てきたような上院の公聴会室の一室という場面設定。今は私がその証人であり、上院委員会の前で話をする準備をしている。フラッシュがたくさんたかれ、一瞬、目がくらむ。私がここにいるのは私が問題に巻き込まれているからではない。いや、深刻な問題に巻き込まれているからだと言っていいかもしれない。私が代表となっている150万近いパーキンソン病患者とともに、そして上院議員たちのグループが起こすような問題などよりはるかに深刻な問題に。けれども私たちをこの問題から救い出すことができるのは彼ら上院議員たちであり、だからこそ私はワシントンD.C.に来た。

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私が上院で話したように、問題となっているのは政府のパーキンソン病への財政的支援が十分でなく、他の医療分野への財政的支援と比較して公平ではないことである。上院議員たちに話していることだが、パーキンソン病への財政的支援が乏しいということは、今の科学の状況と治癒の可能性の高さを考えれば重大な機会が見逃されているということを意味する。私の後に話をした科学者たちは「治癒は10年以内に可能となるだろうが、それは研究の努力に十分な資金が与えられた場合に限る」と強調した。

こうした公聴会に出ることは、私にとって個人的に大きな一歩である。パーキンソン病であることを公表して1年近く経つが、私が人前で支援する場に立つのはこれが初めてである。“何をすべきかはっきり分からないなら何もするな。もっと多くのことが明らかになる。”そう、今はもうもっと多くのことが明らかになった。こうして「私が公聴会に出席することで事態が変わるかもしれない」というようなことが。少なくともこれはParkinson's Action Network(PAN)の創設者であり主事であるジョアン・サミュエルソンがワシントン行きに私を勧誘しようと電話をよこした時に言ったことである。彼女は科学者や患者を含む人々の一団をかき集め、上院にパーキンソン病の研究にもっと資金が行くよう指示してくれと要求しようとしていた。

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病気を公表した直後、私はテレビや新聞を見るのを極力避けた。悲劇的人物、無力な犠牲者として見られることが一番怖かった。かつてテレビに出ていた親しみやすい隣の男の子が不治の病で打ちひしがれ、今や哀れみの的になるなんて。この話題がいつまで続くかということも同様に耐えがたかった。

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けれどもついに報道を見たとき、私はいかに自分が状況を見誤っていたかに気付いた。マスコミ人には悲しい扇情的な側面を強調する人もいたものの(そういう人種だと思われがちだ)、報道に見られる全体的な傾向は驚きながらも敬意を表し、そして危惧するものだった。街頭インタビューで、一般の人たちは私が怖れていたような同情ではなくてむしろ本物の共感を、好ましい結果への希望の言葉を口にした。なおよいことに、続く報道では私より病気そのものが取り上げられた。病状を描写した長く詳細な特集記事が載り、インタビューを受けた医師が診断・予後・さまざまな可能な治療法を説明した。全国の地方紙や地方局があらゆる年代のパーキンソン病患者にインタビューを行い、彼らに、自らの体験を語り、闘病・恐怖・未来への希望といった実状を伝える機会を与えた。科学者や研究者は将来的にそう遠くはないかもしれない潜在的な突破口や可能な治療法について議論した。

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私の名前が人の注意を引き、それで私の名前がなかった場合よりは少々早く目的を達成できる。これはフェアだろうか?正しいのだろうか?これは込み入った質問だが“私はパーキンソン病である”という事実は残る。これは演じている役ではない。他の患者と同じように、私には体験という特別な知識がある。私はこの問題を理解し科学的知識を身に付け、このグループの切迫した気持ちを共にしている。加えて私は著名人であるというとても珍しくかつ有益なお金をたまたま持っていて、そしてそれの素晴らしい使い道を発見した。私は証言で一部、著名人による支援運動に、まさしくなぜ私が話すよう招かれたのか、なぜ私が同意したのかについて述べた。次の言葉は私が上院議員たちに語ったものである。

今まであなた方の多くは私のことを聞いたことがあるでしょう。しかしこんな話は聞いたことはないでしょう。38歳の編集者のアンがパーキンソン病のせいで出版社の職を失いニューヨークの中流階級から貧困へと落ち込んだことは。また元弁護士のグレッグの話も聞いたことはないでしょう。2週間前、彼の友人と家族は、時間通りに運ばれてこない処方薬を待っているあいだ彼が動けなくなっていくのをおののきながら見つめていました。パーキンソンを患った人にとって“正常”という考えがどれほど無力であるか、これほどはっきり示すものはありません。

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あとブレンダの話も聞いたことはないでしょう。最近、薬が効かなくなって、誰も助ける人がいないまま彼女はバスタブの中で硬直しました。何時間もそのままで、やっと薬が脳まで届いて彼女はバスタブから這い出しました。もうこの時には彼女はパニック発作を起こしていて口を利けませんでした。彼女はやっとのことでパソコンにたどり着き、それを使って友人に助けて欲しいと連絡しました。

今述べた人々の中で、私が彼らより注目を浴びていることを気にする人は誰もいません。彼らが私に繰り返し言ったこと、それはもしマイクの前に立つ機会があったら私は話し始めるべきだということです。

だから私はここにいるのです。

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パーキンソン病を受け入れてきたこの10年は人生で最高の10年と判明することだろう。病気にもかかわらず、ではなく、病気のために、である。

インタビューの中で、私は自分の病を“贈り物”と呼んできた。そのせいで私は他のパーキンソン病を患った人たちにお叱りを受けてきた。私はただ自分の体験から話しているだけだが、やはり部分的に間違っていたようだ。もし贈り物は贈り物でも、これからもずっと受け取り続けていかなければならない贈り物である。病気の攻撃やら肉体的ダメージやらに対処するのは生易しいものではない。そもそも誰も自分の身にこんなことが降りかかることを選びはすまい。それでも、この予期せぬ危機は根本的な人生の決断を迫る。被包囲心理に囚われるか、あるいは旅へと足を踏み出して行くのか。それは勇気だったのか受容だったのか知恵だったのか。いずれにせよ(初めに悲惨な数年を過ごしたあと)最終的に私に第二の道を歩ませてくれたものは何であれ疑いもなく贈り物だった。そして脳にこの災難が降りかからなければ、私は決してその贈り物を開けることはなかっただろうし、こんなにも深く豊かな心になることもなかっただろう。だから私は自分をラッキーマンだと思うのだ。/

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私は上院委員会で発言していた。私が伝えたかったことはパーキンソン病の研究にはもっと資金が必要だということだった。科学者は、資金さえ不足していなければ、10年以内にも治癒は可能だと言う。私がパーキンソン病だと知らせた1年後、人前で病気ついて話すのはこれが初めてだった。これまで私は自分がどう見られるかが怖かった。テレビに出ていた隣の男の子が今や哀れみを誘うとは、というように。しかし驚いたことに、人々は哀れみより理解を示し、公表したことでパーキンソン病を持つ人々─職を失い貧しくなったニューヨークの編集者のアンや、薬の効果が出るのが遅れて浴槽で溺れかけたブレンダのような人々─の問題に注意を向けさせる助けとなった。パーキンソン病は辛くはあるが、おかげで私は他の人を救うために自分の名前を利用できる道にいる。このことが私をラッキーマンにした。


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