UNICORNⅠ lesson7
ユニコンⅠ lesson7
One Step Beyond ─一歩向こうへ─
①
30歳のとき、私は昔の戦闘地域の地雷を除去するボランティアグループであるHALOの一員になった。この決断は両親に影響されたものだと思う。私が幼かったとき両親はさまざまなボランティア活動をしていた。
私は1962年にイングランドのソールズベリー近くの村で生まれた。父は農場経営者で、私も農場経営者になるつもりだった。しかしながら農業大学卒業後に考えが変わり軍隊に勤務することにした。
1989年、ベルリンの壁が取り壊されたとき私は軍隊を除隊し、金融会社に勤め始めた。私は仕事でかなりうまくやっていて高い給料を得ていた。しかし私の生活には何かが欠けていた。目的がなかったのだ。自分のためだけに生きるより、他の人々を助けるために何かをすることの方がずっと重要だと信じ始めた。
そのときHALOについて読んだ。参加することに決めた。始めに彼らは私に地雷の除去の仕方を教えた。その後、私はカンボジアへ、それからもモザンビークへと送られた。
②
1995年3月7日モザンビーク北部
世界には1億個以上の地雷がある。毎日70人の人々が地雷を踏んで怪我をするか命を落とすかしている。私がしている仕事はやりがいのあるものだと強く感じていた。
ある日、一人の若者がモザンビークで地雷を除去している時に死んだ。翌日、私はどうしてそのような悲劇的な事故が起こりえたのか調べていた。日が高く上りとても暑かった。その仕事は非常に慎重な、気長な作業を要した。体がひどく弱っていると感じたのも不思議はなかった。日を浴びすぎたなと思った。どこかで休む必要があった。道を3歩下がった。3歩目で“バン”。私の体は空中に放り上げられ、それから落ちて地面に打ち付けられた。
すべてが静寂に包まれた。私はうつぶせに横たわっていた。右腕を上げようとしたが動こうとしなかった。ひどい怪我を負っていた。右足を見下ろした。ひざから下がなくなっていた。
③
1995年4月ロンドン
自分があの事故を生き延びたことが信じられなかった。しかし「死ぬのが一番簡単なことかもしれない」と考えることもあった。南アフリカの病院で右腕のひじから下を切断された。その後、ロンドンの病院に移された。
私は義手の使い方を習い始めた。すぐにパソコンを使ったり簡単なことをしたりすることができるようになった。しかしながら一番の難題は義足でどうやって歩くかということだった。とても難しく、痛かった。イライラして落ち込んだ。できるだけ早く退院したかった。
ある日曜日、テレビでロンドンマラソンを見た。勝つことがランナーの唯一の目的だった。不意に、明確な目標を持つことがとても大事だということを悟った。翌年のロンドンマラソンで走ることに決めた。いまや(到達すべき)明確な目標ができてうれしかった。その日の夜はぐっすり眠った。
その後、マスコミが私の計画を聞きつけた。そのマラソンはカンボジアの地雷犠牲者のためのお金を得るチャリティ・イベントになった。
④
1996年4月14日ロンドンマラソン
その日がやって来た。私の初マラソンはかなり順調に進んでいった。しかし29キロ地点に達したところで背中が痛み、ひざと義足の間から血が出ていた。それでも5時間29分でマラソンを完走できてとても幸せだった。
それ以降、世界中の他のマラソンを走った。(私が走った)どこの国でも人々が沿道に並び私を応援してくれた。このすべてが地雷反対運動への関心を高めるのに役立った。
1997年、すばらしいニュースが入った。地雷禁止国際キャンペーンがノーベル平和賞を受賞したのだ。その上、1998年の長野オリンピックの役員が開会式で聖火を運ばないかどうか聞いてきたのだ。私は喜んで引き受けた。
競技場に入ると子供たちが私の周りで楽しそうに踊りだした。かなり感激したが、彼らは(私が知っている)足が一本の、あるいは足がない大勢の子供たち─地雷事故の犠牲者たちを思い出させた。彼らがテレビを見ていて、そして私が彼らのために走っていることを知って欲しいと思った。/
