2008年6月22日 (日)

EXCEEDⅠ reading2

エクシードⅠ reading2

A Service of Love 

20歳のとき、ジョー・ララビーは芸術を学びに中西部を離れニューヨークへ向かった。彼はほとんどお金を持っていなかった。デリア・カルサーズは南部の出身だった。彼女はとても歌がうまかったので、家族が歌を学ばせようと彼女をニューヨークに行かせたのだった。

学生パーティーでジョーはデリアに出会った。二人は恋に落ち、まもなく結婚した。

ララビー夫婦は小さなアパートに引越しした。二人には芸術があり、お互いがいたからとても幸せだった。

ジョーは偉大なマジスター先生の下で学んでいた。マジスター先生はいい先生だったが、授業料は高かった。デリアは有名なローゼンストック先生の下で学んでいた。一日の勉強を終えたあと興奮してずっと話し込んだり、将来の計画や夢を分かち合ったり。そんな小さなアパートでの一緒の生活が何より楽しかった。

しかし、しばらくして授業料を払えるほどのお金がなくなった。人は芸術を愛している時はどんな仕事も苦にはならないようだ。ある日、デリアはお金を稼ぐため音楽を教えることにした。

23日間、彼女は生徒を探しに出かけた。ある日の夕方、彼女は興奮して家に帰ってきた。「ねえ、ジョー!」彼女は言った。「生徒見つけちゃった。ピンクニー将軍の娘さんでクレメンティーナっていうの。レッスンは週に3回。ちょっと考えてみて。1回のレッスンで5ドル!あと23人生徒を見つけたら、またローゼン先生の授業を受けられる。」

「でも。」ジョーが言った。「自分だけ絵を描き続けて君を働かせるなんて僕がそんなことさせると思う?僕だって新聞を売ったりレンガ運びをしたりして自分で12ドルくらい稼げるよ。」

デリアは近寄って彼を抱きしめた。「ジョーったら。ばかね。あなたは自分の勉強を続けなくてはだめ。そもそも私はまだ音楽をあきらめてない、そうでしょ?教えながら学ぶ。私はいつだって音楽と一緒。」

「分かったよ、デリア。マジスター先生が、先週公園で描いた空のタッチを気に入ってくれたんだ。」ジョーが言った。「それからティンクルさんがショーウィンドウに僕の絵を2枚飾っていいってさ。」

翌週ずっと、ララビー夫婦は早めの朝食を取った。ジョーはセントラルパーク日が昇るのを描いていた。それで毎朝7時にデリアは愛を込めて、おいしい朝食を作って彼を見送った。芸術は厳しい主人である。彼はたいてい夕方7時に帰ってきた。

週の終わり、デリアは小さなテーブルに誇らしげに15ドルを置いた。「時々ね。」彼女は疲れた声で言った。「クレメンティーナは教えるのが難しいのよ。同じ事を何回も繰り返し言わないと。」

その次にジョンが誇らしげにポケットから18ドル出してデリアの15ドルの横に置いた。

「絵が売れたよ、デリア。シカゴから来た人がティンクルさんのウィンドウの絵を見て気に入ってくれて。」

「うれしいわ。」デリアが言った。「33ドル!こんな大金これまで見たことなかったよね!」

次の土曜日の夕方、ジョーが先に帰宅した。彼はまたテーブルに18ドル置いて、汚れた手を洗った。30分後、デリアも帰ってきた。彼女の右手には包帯が巻かれていた。

「それは?」デリアの右手の包帯を見てジョーが尋ねた。

デリアは笑おうとした。「クレメンティーナがレッスンの後にお茶を飲もうとしたの。でも彼女、私の手と手首に熱湯をかけてしまって。」

デリアはテーブルの上のジョーのお金を見た。「あら、ジョー。シカゴの人にまた絵を売ったのね?」

「売ったのさ。」ジョーが言った。「デリア、君がやけどしたのは今日の午後?」

「うん。」デリアが言った。「アイロン、ていうか熱湯がこぼれて…」

ジョーは彼女の横に座り肩を抱き寄せた。

「この2週間、君は何をしていたんだ、デリア?」彼は尋ねた。

少しのあいだ彼女はジョーにクレメンティーナの話を続けた。けれど、とうとう真実と涙がこぼれ出た。

「私、生徒は見つけられなかったの。」彼女は言った。「でもあなたにはレッスンをやめて欲しくなかった。だからクリーニング店でアイロンがけの仕事に就いたの。店の女の子が私の手にアイロンを置いてしまったあと、お茶の話をでっち上げることにしたわけ。」

ジョーはうつむいて床を見つめた。

「それなら知っている。なにしろここ2週間、僕はそのクリーニング店で給湯器の手入れをしていたのだから。今日の午後、2階の女の子がアイロンで手をやけどしたって聞いていたんだ。」

「それじゃ、あなたは…」

「僕のシカゴから来た買い手も。」ジョーが言った。「君のクレメンティーナも芸術的な作り話さ。ただ誰もそれを絵とか音楽とは呼ばないだろうけどね!」

そして2人は笑い、ジョーがまた言った。「人は芸術を愛している時はどんな仕事だって…」

しかしデリアは彼の口に指を当ててさえぎった。「うううん。」彼女は言った。「『人は愛をしている時は』だけでいい。」/


EXCEEDⅠ lesson8

エクシードⅠ lesson8

A Message form Forty Years Ago

ここに魚の写真がある。彼らが何なのか知っているだろうか?彼らはジャパニーズ・キリフィッシュ、つまりメダカである。この間までは多くのメダカがいなかの水田沿いの小川にいるのを見ることができた。しかし彼らのほとんどはいなくなってしまった。なぜか?理由の1つは、水田に使用した農薬が、小川の水をメダカが住むのに適さないものにしたことである。時がたつにつれ彼らは完全に絶滅してしまうかもしれない。メダカが生きていけない自然環境は人間にとっても危険である。私たちは今や生態上の危機の時代にいるのである。

40年前に私たちにこの危機のことを教えてくれた一人の女性がいた。彼女はレイチェル・カーソン、『沈黙の春』の著者である。

『沈黙の春』は次のように始まる。

“かつてアメリカにあらゆる生き物が環境と調和して生きている町があった。そして奇妙なことが起こった。農場の動物たちが病気になって死んだのだ。鳥たちは姿を消した。沈黙の春だった。”

20世紀半ば、アメリカの農業経営者たちは昆虫が作物を食べたので大変な思いをした。そこで昆虫を殺すためDDTと呼ばれる殺虫剤が使われた。それのおかげで農業経営者は大いに助かった。1958年のある日、カーソンは友人の一人、オルガ・ハキンズから手紙を受け取った。その手紙に、DDTが彼女の土地の多くの小鳥を殺したと書いてあった。当時、カーソンは海洋生物を研究していて、化学薬品が自然環境に悪いかもしれないとすでに感じていた。彼女はDDTについて研究し始め、自分はDDTの危険性について本を書く必要があると考えた。

ハキンズの手紙はカーソンに『沈黙の春』を書かせた。彼女が本に書かなければならないことははっきりしていた。それはDDTが生態系を変え、地球上の生物を殺すということである。多くの農業経営者がDTTを喜んで使うこと、また、そのような本が出れば化学薬品工場や政府が彼女に反対するだろうということを彼女は知っていた。だから彼女は本を科学的にしなければならなかった。彼女は何千もの論文を読み、多くの科学者にDDTの危険について質問した。

1962年、『沈黙の春』が出版された。すぐに多くの化学薬品会社がレイチェル・カーソンを激しく批判し始めた。彼らは彼女に反対する宣伝を広めるために何百万ドルも使った。ある有名な科学者が言った。「『沈黙の春』は科学的な作品ではない。うそだらけだ。」別の科学者が言った。「もしカーソンさんの言うことに従ったら、我々は地球が虫だらけだった時代に逆戻りしてしまう。」中には彼女を‘気狂いじみた女性’と呼ぶ人さえいた。

カーソンは本に真実を書いたと信じた。彼女は彼らが自分の悪口を言っているのを耳にした。ただ一度だけ、彼女は答えた。それはテレビのインタビューでだった。彼女は自分の考えを説明するために‘食物連鎖’という理論を使った。それはこのようなものである。“ミジンコが少量のDDTを食べる。もし小さな魚がたくさんのミジンコを食べたらDDTの量は数倍に増える。もしより大きな魚がたくさんの小さな魚を食べたらその毒はもっと増える。このようにして食物連鎖の数回の連鎖で何倍にも蓄積されることがありうる。もし私たちがその魚を食べたら、どれほどの毒を持つことになるだろうか?

この理論は多くの人々に彼女が本に書いたことを信じさせた。すぐにその本はベストセラーになった。半年で50万部以上売れた。彼女に対する批判はまだあったが、彼女に感謝する数千通の手紙が彼女に送られた。

カーソンは手紙の中の1通に答えた。「1冊の本がすべてを変えると思うのは間違いです。しかし今、私は少なくとも少しは役立てたと思えます。」

レイチェル・カーソンは1964年に亡くなった。現在、私たちはDDTを使うのをやめている。しかし現在私たちが他の化学薬品から受ける害は、カーソンが生きていた時より大きいかもしれない。私たちはもっと多様な形でより広く化学薬品を使うからである。私たちは今でも、40年以上前レイチェル・カーソンによって書かれた言葉に耳を傾ける必要がある。

“私たちは今、道が二つに分かれる分岐点に立っている。私たちが進んでいる道はとても安楽である。それは高速道路だが、その終わりには生態上の危機がある。少数の人しか進んでいないもう一方の道は厳しい。しかしそれは地球の存続を保証するという目標を達成する最後のチャンスを私たちに与えてくれる。”/

for reading

医者:こんにちは。気分がよくないのですか?どうしました?

サトシ:昨日から頭が痛いのです。熱もあります。

医者:ナースに熱を測ってもらいましたか?

サトシ:はい。373分でした。

医者:分かりました。音を聞くからね。シャツのボタンを外して息を吸って。

サトシ:はい。こうですか?

医者:そうです。まあ、風邪ですね。暖かくしてゆっくり休んでください。

サトシ:ありがとうございました。薬出ますか?

医者:いいや。きちんと休んで水分を十分摂ってください。


EXCEEDⅠ lesson7

エクシードⅠ lesson7

A Bridge between Japan and Laos

1994年のある日、ある新聞記事が高知商業高校の生徒会執行部の一人の目に留まった。記事にはラオスで学校が不足していると書いてあった。彼は生徒会執行部のミーティングでこのことを話した。執行部のメンバーたちはこの話に興味を持ち、ラオスに学校を作るための高知ラオス会のプロジェクトに参加することを決定した。彼らは寄付や文化祭で開かれるバザーを通じてお金を集め始めた。

彼らが2年間で集めたお金は約120万円だった。彼らはそのお金を高地ラオス会経由でラオスの教育省に送った。教育省はそのお金を使って2つの小学校を作った。

1996年、生徒会執行部の新しいメンバーたちはこの活動を続けたいと思った。今度は彼らは寄付中心の方法から交換中心の方法へと変えた。そこで彼らは株式会社をスタートさせることにした。こうすることによって、ラオスの人々も日本の人々も平等に活動に参加できた。

生徒会執行部は会社の生徒や教師、親に株を売った。株は1300円だった。彼らはこのお金の一部を使って数名の生徒をラオスに送るのを助けた。ラオスでその生徒たちはラオスの商品を買える市場にいった。彼らは商品を高知に持ち帰り、文化祭で売った。彼らはそのお金を使って株を買い戻し、株主に少しの利益を与えた。残ったお金は3つ目の小学校を作るのを助けるため高地ラオス会に与えられた。その後、彼らは会社を解散した。

会社は翌年再び立ち上げられた。生徒たちは高知の人々にこのプロジェクトのことを知って欲しかった。それで彼らは地元のデパートでラオスの商品売り場を開いた。彼らはまたラオスの踊りのデモンストレーションも行った。これらのことがこの売り場に来た人々に感銘を与えた。デパートの売られた商品と文化祭の利益から4つ目の学校が作られた。

生徒会執行部の最後のミーティングで、翌年の生徒会執行部の一人が言った。「地元の人々と共同プロジェクトにしよう。」この提案は受け入れられ、生徒たちは地元商店街のお祭りに参加することにした。彼らは2000年に第1回‘はりまやストリートフェスティバル’を開いた。この年はこの活動の歴史で最大の利益を出した年だった。これは彼らと地域社会とラオスの友人たちにとってこれまた1つの成功だった。

市商の生徒たちはプロジェクトが成功してきたのには3つの基本的な理由があると思った。

1に‘一方通行的寄付’から‘双方向的交換’に変えてきたことである。高知の生徒と人々は、ラオスの商品やラオスの生活の展示を通じて多くのことを知った。それにラオスの生徒も日本の生徒がラオスを訪れたときに日本の生活や文化について知った。

2に、彼らがプロジェクトから得た利益は主に社会的利益に使われたことである。それは地域レベルでも地球レベルでも社会に還元された。プロジェクトは人々の向上にとても有益だった。これは‘経済活動’の基本的目標である。

3に、このプロジェクトは1994年から現在まで受け継がれてきたので、理解されるようになってきたことである。この継続を通じて日本とラオスの人々のつながりが深まり向上した。/

for speaking

観光客:すみませんが山川ホテルはどこだか教えていただけないでしょうか?

シンゴ:いいですよ、えーと。まっすぐ3ブロック行って左に曲がってください。そしたら2つ目の角に銀行が見えます。そこを右に曲がってください。左側にホテルが見えます。

観光客:ホテルまで何分かかりますか?

シンゴ:そうですね、歩いて約15分です。

観光客:ご親切にありがとう。

シンゴ:どういたしまして。この町に来るのは初めてですか?

観光客:はい。クアラルンプールからたった今ついたばかりです。

シンゴ:そうですか。ではよい1日を。

観光客:ありがとう。


2008年6月18日 (水)

EXCEEDⅠ lesson6

エクシードⅠ lesson6

The Wonders of Saturn’s Rings

土星の最もよく知られた特徴の一つはその環である。多くの人々は、なぜ土星はそのような環を持っているのか、環はどのようにして作られたのか思いをめぐらせてきた。

自分で作った望遠鏡を使い、ガリレオは17世紀初頭、初めて土星を観測した。彼は土星が2つの‘耳’を持っていると考えた。半世紀後、ホイヘンスはその‘耳’が実は円盤状の環であることを確認した。25年後、カッシーニがその環は実際は間に境界線のある2つの環でできていることを発見した。

1970年代以降、土星に宇宙船が打ち上げられてきた。現在は環は7つあると考えられている。それぞれの環を構成している粒子は大きさも色も違っている。

土星の環について最も不思議なのは“環はどこから来たのか”である。科学者はこの問いに答える2つの説を教えてくれる。

1の説は土星とその環はほぼ同時に生み出されたとするものである。約46億年前、銀河系の惑星たちは新しく生み出された太陽の周囲の気体から生まれた。太陽の誕生が結果的に惑星や土星の環になるガスを残した。

2の説の支持者は、環はもっと最近のここ1,000万年以内に生み出されたと考える。土星の近くを飛んでいた彗星が土星の衛星と衝突し、粉々になった。これらの破片が土星の重力に引き降ろされて環となった。

どちらの説が正しいのか決めるため、科学者はNASAに次にすべきこと、すなわち土星にもう一隻の宇宙船を打ち上げるよう勧めた。そうすればこの問いに答えるのに十分な新しいデータが得られるだろう。

カッシーニはさらなるデータを得るため土星に送られた新しい宇宙船である。これはNASAESAの共同チームによって作られた。その宇宙船は打ち上げ時、重さが約5,700キロあった。カッシーニはとても重かったので、加速したり土星に達するのに軌道を変えたりするために多くのエネルギーを必要とした。

NASAのサイトはこのチームが何をしたのか教えてくれえる。チームは‘接近通過’を使った。接近通過では、さらなるエネルギーを得るため、宇宙船は惑星のそばを通過しその惑星の重力を利用する。

カッシーニは199710月に打ち上げられた。まずカッシーニは加速させる接近通過のため金星に送られた。カッシーニは金星のそばを19984月と19996月の2回通過した。それからカッシーニは19998月に地球のそばに戻り、さらに加速するため地球の重力を利用した。最終的に、カッシーニは土星に接近できるよう軌道を変えるために200012月、木星のそばを通過した。打ち上げてから7年後の20007月、カッシーニは土星の軌道に乗った。

カッシーニからのデータによると、リングAとリングBの間の空間は黒い物質を含んでいる。この物質は土星の衛星を構成している物質ととてもよく似ている。この発見は、土星と衛星と環はほとんど同時、つまり約46億年前に生み出されたとする第1の説を立証する。

カッシーニはまたリングEの酸素が増えていることも発見した。その酸素は環の中で物体が衝突したことの証拠かもしれない。それらの物体は主に氷で構成されていて、粉々になるとき酸素を放出する。中には、この過程がいつか遠い将来、たとえば1億年のうちにEリング全体を侵食するかもしれないと言う科学者もいる。他の環でも同じような状況なのだろうか?

このように、どの発見もさらなる疑問を生むだけである。もっと調査すれば環が侵食されているかどうか分かるだろう。土星の環は1億年のうちに消滅するのだろうか?/

for speaking

ウェイター:サワディークラップ。

マイコ:サワディーカ。これが私たちが知っている唯一のタイ語です。英語は話せますか?

ウェイター:はい。

マイコ:よかった。

カツヤ:タイの代表的な料理を食べてみたいです。お勧めは何ですか?

ウェイター:トムヤンクンはいかがでしょうか?野菜とえびの入ったスープになります。

マイコ:それはいいですね。それにします。

カツヤ:僕はこっちのスープ付の麺を注文したいです。


2008年6月17日 (火)

EXCEEDⅠ lesson5

エクシードⅠ lesson5

A Runner against landmines

クリス・ムーンは義足をつけたランナーとして知られる。彼は1995年にモザンビークで地雷を除去しているときに右腕と右足を失った。

1年後、彼はロンドンマラソンに参加した。彼は一番速いランナーではなかった。彼のペースはほとんどのランナーより遅かった。しかし彼はコース全体を走りきった。それ以来、彼は15以上のマラソンを走った。1998年、彼は長野冬季オリンピックの聖火ランナーとして走った。

「右腕と右足がないのになぜ君は走るのか?」ある男性が聞いた。「なぜなら私にはまだ右腕と右足があるからです。」ムーン氏は笑顔で答えた。実際、義足で走ることによって彼は私たちに“私たちは世界の地雷問題について考えるべきである”というメッセージを送っているのである。

現在、72の国々に11,000万個の地雷が埋められていて、地雷による死傷者数は毎年25,000人を超える。22分おきに新たな犠牲者が出る。犠牲者は兵士だけではなく農民や子供たちもである。地雷犠牲者の多い国はアンゴラ、モザンビーク、カンボジア、ボスニアである。これらは長く内戦が続いた国である。アンゴラが最も地雷数が多く、1,500万個の地面に埋められている。これは国土の60パーセントに地雷が埋められていることを意味する。

なぜそんなに多くの地雷が使われるのか?それは地雷が埋めるのが簡単で、それにとてもとても安くもあるからである。一番安い地雷は300円しかしない。これはハンバーガーと同じ値段である!

日々地雷除去に尽力する専門家は約5,000人いる。彼らが最初にしなければならないことは、探知機を使って地雷の位置を特定することである。次に彼らは長い棒を使って地雷を掘り出す。それから、地雷の型を突き止めなければならない。その後、彼らは地雷を爆破させる。このようにして、年に約10万個の地雷が除去されている。このペースだと、世界のすべての地雷を除去するのに1,000年かかるだろう。

地雷を除去するにはまた多くの費用がかかる。たった一つの地雷を除去するのに3万円から10万円かかる。それでもなお後世の人々を地雷の脅威から解放するために努力がなされている。現在、世界で地雷除去のために働くボランティアが約5,000人いる。クリス・ムーンはそうしたボランティアの一人だった。

その日長野の聖火リレーを走ったあと、クリス・ムーンは長野の高校の生徒たちに話をした。一人の生徒が、クリス氏の走ることへの最初の動機は何だったのか聞いた。「医師の言葉です。」「ご存知のように、私は腕と足を失い、病院で約1年間リハビリしました。ある日、医師が私に『君はもう走れない』と言いました。その言葉が私の中の何かを奮い立たせました。私はまたいつか走る決心をしました。」

もう一人の生徒が地雷を禁止するため何かできることがあるかどうか聞いた。クリス・ムーンが答えた。「もちろん。地雷について学ぶことができます。友達や家族と地雷について話せます。地雷に反対する活動のボランティアになれます。こうしたことすべてが世界中で地雷を禁止することにつながるでしょう。」彼は付け加えた。「あきらめるのは簡単ですが、君が夢をしっかり持ち続ければ、どんな目標でも達成できるでしょう。」/

For speaking

店員:いらっしゃいませ。

ケンジ:はい、オーストラリアのお土産を探しています。

店員:ディジェリドゥはいかがですか?アボリジニの楽器です。

ケンジ:ああ、あれがディジェリドゥですか。いくらですか?

店員:120ドルです。

ケンジ:うーん、高すぎます。こっちのはいくらですか?

店員:85ドルです。

ケンジ:結構。これを下さい。100ドル札でお願いします。

店員:はい。こちらがおつり、8590、これで100ドルです。

ケンジ:うーん、面白い勘定の仕方ですね。


2008年6月16日 (月)

EXCEEDⅠ lesson4

エクシードⅠ lesson4

What’s in a Name?

世界で一番高い山の名前を知っているだろうか?もちろん知っているだろう。それはヒマラヤ山脈にあるエベレスト山である。それはチベットとネパールの間にある。世界の多くの人々は長年、その山をエベレスト山と呼んできた。しかしチベットとネパールの人々はその山をエベレストという名前では呼んでこなかった。彼らには独自の呼び名があった。チベット人はその山を‘チョモランマ’と呼び、一方、ネパール人はその山を‘サガルマータ’と呼んでいる。‘チョモランマ’は‘世界の女神’を意味し、‘サガルマータ’は‘偉大な青空の頭’を意味する。

では‘エベレスト’は何を意味するのだろうか?‘エベレスト’はジョージ・エベレストという英国人の名前に由来している。彼は1830年から1943年までインド測量局の局長だった。当時、英国は世界の大国だった。1852年、測量局はその山が世界で最も高いことを知った。測量局の人々はその山をジョージ・エベレストに敬意を表してエベレスト山と名付けた。このようにしてエベレストという名前は世界中に広まった。

これに似た例がもう一つある。オーストラリアの中央部にある巨大な岩は‘エアーズロック’と呼ばれる。これはヘンリー・エアーズにちなんで名付けられた。彼は英国出身の公務員で、南オーストラリアの首相になった。オーストラリアのアボリジニーの人々はその岩を‘巨大な小石’を意味する‘ウルル’と呼んできた。今ではより多くのオーストラリア人がその岩を‘ウルル’と呼び始めている。

新しい世界地図を古い世界地図と比べると、地名のいくつかが変わったことに気付く。次のページの地図を見て欲しい。上の地図が古い地図で、下の地図が新しい地図である。新しい地図は1998年に発行された。

古い地図に‘ボンベイ’の名前があるだろう。地図の製作者は1997年までその名前を使っていた。しかし1998年以降、彼らは‘ムンバイ’も使ってきた。また、彼らは‘チェンナイ’と‘マドラス’の両方の名前を使ってきた。‘ムンバイ’と‘チェンナイ’は元の名前と音が似ているので、今、それらは新しい地図で使われている。世界地図の約4,000の名前が元の名前に変えられることになっている。

なぜ人々は元の名前に戻したいと思うのだろうか?なぜなら元の名前は彼らにとって重要だからである。元の名前は彼らの生活、彼らの文化を反映している。

人名の場合は地名とは事情が違うかもしれないが、ある点では同じである。両者とも民族のアイデンティティと文化を反映する。

英語を話したり書いたりするときの日本人の姓と名の順序の場合を見てみよう。たとえば、私たちは自分たちをSuzuki TaroTaro Suzukiのどちらかで呼ぶことができる。数年前まで、多くの日本人は自分たちを後者の方法、すなわち英語での順序で呼んでいた。彼らは英語を使うときは英語の順序を守るべきだと考えた。しかし今ではますます多くの人々が、私たちのアイデンティティを示すために日本語の順序を採用すべきだと考えている。韓国人と中国人は長年、彼らの元の順序を使ってきた。日本語の順序と英語の順序、君はどちらが好きだろうか?/

For speaking

サム:もしもし。

エミ:もしもし、サム?

サム:そう。

エミ:私、エミ。元気?

サム:元気。ありがとう。君は?

エミ:元気。ところでねサム、土曜日に私たちの町でお祭りがあるの。みこしや屋台がでるよ。来る?

サム:もちろん。

エミ:よかった。じゃあ吾妻駅の前で会いましょうか。

サム:オーケー。何時にする?

エミ:午後5時でどう?

サム:いいよ。


2008年6月15日 (日)

EXCEEDⅠ reading1

Reading1

On a Stormy Night

嵐の夜だった。一匹のやぎが森の中を歩いていた。彼は雨ですっかり濡れていた。突然、いなずまが光った。彼は小さな小屋を見て中に入った。中は暗かったが、雨を避けられたから彼は満足だった。彼は横たわって嵐がやむのを待った。まもなくして、ドアが開き、雨を避けて誰かが入ってきた。

コツ、コツ、コツ。

コツコツいう音がやぎの足音のように聞こえたので、やぎは訪問者が他のやぎだと考えた。

「やあ、友よ。」やぎは言った。しかしやぎは間違っていた。それは友達ではなかった。狼だったのである!狼は足をけがしていて、歩くとき杖をついていた。これが音を立てていたのである。

「誰だ?」狼が聞いた。

「僕一人。」やぎが言った。「君がここにいてよかった。とても寂しかったんだ。」

「俺もこんな暗い嵐の夜に話す相手を見つけてうれしいよ。ハクション。」

「大丈夫かい?」

「大丈夫だけど風邪を引いているんだ。」

「僕も風邪を引いている。だから何もにおいをかげない。」やぎが言った。

「俺もだ。できるのはせいぜいお互いの声を聞くことだけだ。」

やぎは「きみはまるで狼みたいな低い声を出すんだね」と言おうとしたが、言わなかった。なぜならそういうと相手の気持ちを傷つけると考えたからである。狼は「君はまるでやぎみたいな高い声を出すんだな」と言いたかったが、言わなかった。なぜならそれは失礼だと考えたからである。

「君はどこにすんでいるの?」やぎが聞いた。

「バクバク谷だ。」狼が答えた。

「本当かい?危険なところだよね。」

「君はどこに住んでいるのだ?」

「サワサワ山に。」

「そうか。あそこは食べ物がたくさんある。」

ちょうど狼がそう言おうとしたとき、彼ら両方のおなかが鳴った。

「とてもおなかがすいた。」

「俺も腹が減った。何か食べ物を得るためにフカフカ谷によく行ったものだ。」

「僕もそこに行くよ、…」「うまい…」二匹は同時に言った。

やぎは「草を食べに。」と言い、一方、狼は「肉を食いに。」と言ったが、雷のせいで彼らの言葉は聞こえなかった。

「子供のころ、俺はやせていて小さかった。」狼が言った。

「子供のとき、僕もやせていて小さかった。」やぎが言った。

「お母さんは俺にもっと食べろと言った。」

「僕のお母さんもよく言っていたよ、『もし食べなかったら速く走れないし、速く走れなかったら生き残れないわよ』って。」

「俺たちは共通点がいっぱいあるな。」狼が言った。

「そうだね。暗闇ではお互い見えないけれど、見た目も似ているかもしれないね。」やぎが答えた。

その時、いなずまがピカっと光って小屋の中が照らされた。

「たった今、下を向いていたから君を見なかった。でも君は見たよね?僕は君に似ていたかい?」やぎが言った。

「いなずまが光ったとき目を閉じていたんだ。だから俺も君を見なかった。」狼が答えた。

それからまたいなずまが光った。怖くなった二匹は跳びあがって抱き合った。

「いなずま怖いな。」

「僕もいなずまが怖いよ。」

「俺たちはとても似ているな。」

「じゃあ、いつか一緒にお昼でもどう?」やぎが聞いた。

「それはいい考えだ。この嵐のせいで嫌な夜だと思ったが、君に会えたからいい夜だと思うよ。」

やぎはドアから外を見て言った。「あれ、雨降ってないや。」嵐は終わっていた。雲の切れ間から星が輝いていた。

「じゃ、もう行かなくては。」

「僕も。お昼ごはんはいつ、どこにする?」

「明日の正午、この小屋の前にしよう。」

「いいね。でも会ったときどうやってお互いを確認しようか?」

「うーん。‘嵐の夜に’というパスワードを使うのはどうだろうか?」

「すてきだね。じゃあね。」

「また明日。」

二匹は分かれた。彼らが会ったとき彼らの身に何が起きるのだろうか?/


EXCEEDⅠ lesson3

エクシードⅠ lesson3

Tsugaru-jamisen and the Yoshida Brothers

200088日、若者と老人の大観衆がコンサートホールを埋めていた。彼らは吉田兄弟の津軽三味線を聞きにホールに来たのだった。

兄弟が着物姿で舞台に現れ、観衆にお辞儀をした。しかし彼らが演奏を始めると、誰もが驚いた。普通、三味線の演奏者は演奏中は体を動かさない。吉田兄弟は音楽に合わせて体を動かす。それにもかかわらず、彼らの音楽は伝統的な質を持っていた。

「あなたの音は完璧です。」コンサートの後に誰かが言った。「ありがとう、でも僕たちは自分たちの音が完璧だとは決して思いません。」兄弟の弟が答えた。「津軽三味線の真髄に達するまでまだしなくてはならないことがたくさんあります。」

吉田良一郎は1977年に生まれ、弟の健一は1979年に生まれた。良一郎は5歳のときに三味線を弾き始めた。彼の父が時々三味線を弾いていた。ある日、彼が良一郎に言った。「三味線を練習したい?」「うん!」良一郎は答えた。兄のように、健一も5歳のときに三味線を始めた。

兄弟が12歳と10歳のとき、吉田兄弟は三味線の先生の指導の下で津軽三味線を練習し始めた。彼らが毎日数時間三味線を練習するのはつらいことだった。「止めようとしたことさえありました。」良一郎は言った。しかし良一郎と健一が全日本津軽三味線コンテストに参加したとき、彼らは自分たちが三味線が好きだということを実感した。彼らはファンと一体になることが楽しかった。

彼らの先生はしばしば彼らに学ぶのが難しい技術を授けた。彼らはそれらの難しい技術をマスターした。彼らはまた感情をこめて指を動かすこととばちを使うことを練習した。アドリブで演奏することは彼らの三味線音楽の基本である。

兄弟のあいだには多くの違いがある。良一郎は練習熱心で長時間練習することを嫌がらない。健一は独創力を持って演奏する。彼は練習中より舞台でよりうまく演奏する。彼が気分がいいと、彼の演奏はとてもぞくぞくさせる。良一郎と健一のこれらの違いは三味線の音に反映される。兄弟はそれぞれ自分自身の音を出したいと思っている。彼らは言う。「僕たちは今もこれからも三味線の演奏においてはライバルだ。」

兄弟は民族音楽家たちとしばしば一緒にコンサートをする。このことは彼らが伝統的な津軽三味線のスタイルに反対することを意味するのではない。彼らはとても伝統的な方法で津軽三味線を練習する。先生と伝統的な津軽三味線の基本を学んだあと、彼らの個性が生まれた。

吉田兄弟は津軽三味線を世界に紹介するという夢を持っている。近い将来、海外の多くの場所で彼らの三味線のコンサートが開かれるだろう。本当に日本的なものは時として‘国際的’でありうる。このことは兄弟によってすぐに証明されるだろう。/

for speaking

ジャヤ:招いてくれてありがとう、ナオキ。はい、プレゼント。

ナオキ:どうもありがとう。これは何ですか?これは甘いですか?

ジャヤ:はい、これはクチンタで、典型的なフィリピンのお菓子です。日本のういろうに似ています。

ナオキ:いいですね。ではお茶を飲みましょう。どんなお茶が好きですか?

ジャヤ:緑茶を試してみます。

ナオキ:分かりました。少し待っていてください。

ナオキ:はい、どうぞ。

ジャヤ:ありがとうございます。おいしそうですね。

ナオキ:おいしいですよ。


EXCEEDⅠ lesson2

エクシードⅠ lesson2

Life in Alaska

アラスカ

シシュマレフ

市長

僕の名前は星野道夫です。僕は日本人の学生です。本であなたの村の写真を見ました。僕はあなたたちの暮らし方にとても興味があります。しかし僕はあなたの村の人を誰も知りません。どうやってあなたの村を訪ねればいいでしょうか?僕は勤勉です。どんな仕事でもするつもりです。あなたのお返事お待ちしています。

この手紙は星野道夫氏によって書かれた。彼はシシュマレフの写真に感動した。半年後、彼は返事を受け取り、シシュマレフに行った。

数年後、彼は再びアラスカを訪れ18年間そこで暮らした。彼はそこの人間と自然の写真をたくさん撮った。

アラスカのいくつかの地域では、冬が半年間続く。気温はマイナス40度である。太陽は午前10時半ごろ昇り、午後3時半ごろ沈む。

雪はそこの人々や動物にとってとても大事である。ある日、星野氏は老人と雪について話をした。「私たちは雪がなかったら生活できません。」老人が言った。「私たちはそりに乗って雪の上を移動します。雪は私たちに静けさをくれます。木の枝の雪でさえ役に立ちます。それはときどき木全体を倒します。それにより野ウサギにすみかがもたらされます。」

星野氏はアラスカで多くのホッキョクグマの写真を撮った。アラスカのエスキモーはホッキョクグマを‘ナヌーク’と呼ぶ。‘ナヌーク’とは氷の王を意味するといわれる。エスキモー文化にはたくさんのナヌークの話がある。ここにその一つがある。この話で、ナヌークは人間に話しかける。

「生き物はみんな母なる大地の一部である。君が私のために祈るとき、君はナヌークになり、ナヌークは君になる。ある日、君は氷の世界で私と出会うだろう。おそらく私たちのどちらかが殺されるだろう。命が再び生まれる。」

エスキモーとホッキョクグマは互いに意思の疎通ができる。彼らは生徒氏を繰り返す中で共に生きている。/

for speaking

キマニ:さあ、私たちの高校に着きました。

ジュンコ:あら、学校にとてもたくさん生徒がいるのが見えます。

キマニ:彼らは休みの時期をのぞいて学校の寮に泊まっているからです。

ジュンコ:しかしどうしてこんなにたくさんの生徒が寮にいるのですか?

キマニ:なぜなら生徒のほとんどが学校からはるか遠くに住んでいるからです。

ジュンコ:分かりました。日本にも寮のある高校があります。

キマニ:そうなのですか?ナイロビにはこのような学校がたくさんあります。


EXCEEDⅠ lesson1

エクシードⅠ lesson1

Languages in the World

現在、地球上には約60億人の人々が住んでいて、彼らは約7,000のさまざまな言語を話す。話し手の多い言語もある。中国語はそのような言語の一つである。約9億人の人々がいろいろな中国語を話す。他に話し手がごくわずかしかいない言語もある。北アメリカのイーヤク語はたった一人の話し手しかいない。

言語の価値はその言語の話し手の数ではない。すべての言語は重要である。各言語はその言語の話し手の心である。

たった一つの国でも人々は多くの言語を使う。インドを例に取ってみよう。ご存知のようにインドはカレーで有名であるが、カレーの味は25キロごとに変わる。これはインドの言語にも当てはまる。もし50キロ移動すれば別な言語を耳にするだろう。インド人は全体で約350の言語を話す。その中の18の言語が公用語である。だから少なくともテレビやラジオで18の異なる言語を聞くことができる。

日本はどうだろうか?中には「日本ではたった一つの言語しか話されない」という人もいる。しかしそうではない。北海道にはアイヌ語を話す人もいる。今、160万人の外国人が日本に住んでいる。北海道にはアイヌ語を話す人々もいる。現在、約160万人の外国人が日本に住んでいる。彼らは50のさまざまな国の出身である。

私たちの日常生活には外国語もある。たとえば大阪地区では、ラジオ局で14のさまざまな言語を聞くことができる。東京のような大都市では、2つ以上の言語で書かれたいくつかの公共標識を目にする。それゆえ日本のいくつかの都市は‘多言語’共同体と呼ぶことができる。/

for speaking

マサト:こんにちは。はじめまして。僕は田中マサトです。

ベティ:こんにちは。お会いできてうれしいです。田中。

マサト:僕をマサトと呼んでください。僕の名前はマサトなので。

ベティ:わかりました、マサト。私の名前はエリザベス・ジョンソンです。

マサト:エリザベスと呼べばいいのでしょうか?

ベティ:私をベティと呼んでください。

マサト:わかりました。ベティ、こっちは僕の父、田中フミオです。

ベティ:はじめまして、田中さん。

田中さん:はじめまして、ベティさん。