2008年7月12日 (土)

EXCEEDⅡ lesson9

エクシードⅡ lesson9

Media Literacy

現代社会では、私たちの生活はマスメディアと密接な関係がある。ある調査によると、平均的な日本人は1日約3時間半テレビを見るが、それは75年生きると思われる人にとって11年間に相当する。新聞や雑誌、映画、ラジオ、インターネットを加えれば、人生のほぼ半分が何らかの形のマスメディアにさらわれている。

マスメディアが発達したおかげで、今では大量の情報が即座に得られる。ほんの数年前よりはるかに多くの情報を簡単に得られる。

けれどもメディアの偏りに気付いていることが重要である。情報は時として送り手によって偏らされ、送り手によって提供されるものがいつも本当だとは限らない。したがって私たちがメディア・リテラシーを持っていること、すなわち情報の作られ方、理解の仕方を知っていることが重要である。

テレビのニュースの選定を考えることによって始めよう。ニュースの項目が10あると仮定してみよう。ニュースにあてる時間は限られているから、各テレビ局はこれらの項目からいくつかを選ばなければならない。どうやってニュースを選ぶのだろうか?それはテレビのニュースの制作者次第である。彼らは彼ら自身の観点に基づいてニュースを選ぶ。

たとえ2つのテレビ局がニュースの同じ項目を選んだとしても、それぞれの項目に与えられる順番と時間は違うかもしれない。下の図を見て欲しい。これは200797日に2つの局によって放送されたニュースを示している。それらの違いが分かるだろう。Aテレビでニュースを見た人々はBテレビを見た人々とは違った印象を持つかもしれない。これは、私たちがテレビのニュースの制作者の観点に基づいたニュースを得ていることを示唆している。すべての視聴者がこのことを理解するのに十分なメディア・リテラシーを持っているかどうかは不明確である。

テレビと他のメディアとの違いは何だろうか?この質問に答えるのは簡単だと思うかもしれない。テレビは目に見えるから他のメディアより強い影響力がある。しかしテレビが提供する映像もまたテレビの制作者次第である。

下の2つの映像は同じ演説を聞いている人々のものである。映像1では人々はスピーチを楽しんでいる。しかし映像2では人々はスピーチに興奮し、強い関心を持っている。もし映像2だけを見たら、スピーチは効果的だと思えそうである。しかしどちらの映像が選ばれ放送されるかはテレビのニュースの制作者次第である。テレビのニュースは事実のすべてを映していると思われるかもしれないが、そうではないかもしれない。ある出来事のほんの一部しか見ていないなら、それの他の重要な側面を見逃しているかもしれない。

視覚に加えて、BGMもまた視聴者に強い影響力がある。ここにある実験の報告がある。3つのグループの子供たちが、木にいる2匹の子ザルのビデオを見せられた。1つ目のグループの子供たちは楽しい音楽と共にビデオを見た。2つ目のグループは悲しい音楽が流れている間に見た。3つ目のグループは神秘的な音楽を聞きながらそれを見た。

君は各グループが違った印象を持つのは同然だと考えただろう?その通り。楽しい音楽のグループの子供たちは子ザルたちが一緒に楽しく遊んでいると考えた。悲しい音楽のグループは子ザルたちが迷子になって母親を探していると考えた。神秘的な音楽を聴いたグループは子ザルたちがスパイのように見えたと想像した。ようするに映像のメッセージはBGMによって変えられる可能性がある。

ここまでで、テレビのニュースの選択・順番・長さと、映像・音楽の使い方がどのようにして情報の意味に影響するかを見てきた。だから私たちはテレビの視聴者として多くの情報が送り手によって影響されていることを知るべきである。このことはまた新聞やラジオ、雑誌のような他のメディアにも当てはまる。何が現実なのか、何が本当なのか知るために、できるだけ多くの情報を集め、それについて自分自身で考えるべきである。

情報技術の時代では、私たちが受け手であるだけでは不十分で、送り手でもあるべきである。今では自分のメッセージをネットやメール、あるいは携帯電話を使ってとても簡単に送ることができる。情報を送るときは、なぜそれを送るのか、何を送ったか、どんな表現を用いたかを心に留めておくべきである。ようするに言葉は批判的かつ明確に使うべきなのである。/

Check it out

私たちの生活はマスメディアと密接に関連している。私たちがメディアの偏向に気付くこと、そしてメディア・リテラシーを持つことが重要である。私たちが受け取る情報は送信者によって偏向されているときがある。第1に、テレビニュースの選択は制作者自身の観点によって違ってくる。第2に、どの映像を選んで放送するかもまた制作者の選択にかかっている。第3に、テレビの制作者は異なったBGMを使うことによってメッセージを変えることができる。最後に、今や情報は簡単に送れるのだから、私たちはその目的、メッセージ、表現を忘れずにチェックすべきである。


2008年7月11日 (金)

EXCEEDⅡ reading2

エクシードⅡ reading2

The Weeping Camel

105

ラクダたちの出産シーズンもほとんど終わっていた。モンゴル南部にあるゴビ砂漠の気候も寒さを増しつつあった。当時、僕は子供で、生まれて初めて特別な儀式に参加した。これがそのときの話である。

僕の家族は伝統的な遊牧生活を送っていた。僕たちは家畜とともに砂漠の中でテントを張り、移動した。生活は家畜に頼っていた。なかでもラクダには多くの点で頼っていた。ラクダは乗り物に使った。ミルクや肉が取れた。毛は服や毛布になった。皮で靴や鞍を作った。フンさえ燃料に使った。

僕の家族は4世代構成だった。曽祖父母、祖父母、両親、弟のウグナ、妹のグンテ、そして僕。

僕たちは自然と季節に調和して暮らし、働き、移動した。快適な生活だった。だけど母ラクダに問題があった。

106

通常、ラクダは人の助けをほとんど借りずに出産する。しかしこの母ラクダは1週間以上、陣痛に苦しんでいた。彼女を助けなければならなかった。父が彼女を出産用の支柱につなぎ、彼女をさすって出産を促したが無駄だった。

2日後、彼女が横になった。彼女の陣痛はとても厳しかった。赤ん坊がどうしても出てこようとしなかった。僕たちはみんな彼女が無事に出産するよう祈った。長くつらい時間のあと、家族全員の手助けで赤ん坊ラクダが生まれた。珍しい白毛のラクダだった。無力な状態で横になっているとき、祖父が赤ん坊ラクダの耳に命を吹き込んだ。赤ん坊ラクダはもがき、立ち上がり、母ラクダを探した。

母ラクダはわが子の方を振り向いた。そのまま顔を背けた。彼女は赤ん坊にミルクも母としての愛情も与えようとしなかった。家族はみんな心配になった。他の全部のラクダと同様、この赤ん坊ラクダは僕たちにとって大事だった。それが僕たちの生き方だった。

107

続く数日間ずっと赤ん坊ラクダは母のミルクと愛情を求めて鳴き続けた。赤ん坊は何度も母に近寄ったが、母はいつもそっぽを向いた。あるとき赤ん坊は母を追いかけたが、母は砂漠の中に駆けていってしまった。赤ん坊はミルクと愛情を求めて鳴きながら後についていった。

「助けないと死んでしまう。もうフースを使うときだ。」母が言った。フースとは音楽によって家畜たちに話しかける儀式である。けれども僕たちのキャンプには、儀式のために二弦ギターの一種である馬頭琴を弾ける音楽家がいなかった。

家族会議で、誰かが音楽家を探しに町に行くことが決定された。町は僕たちのキャンプからラクダでだいたい半日の距離だった。

109

「僕が行く。」親に言った。家族のために、白ラクダのために何かしたかった。そのうえ僕は一度、父と町に行ったことがあった。それからウグナが言った。「僕もドーデーと行く!」彼は単に町に行きたがっているだけのようだったが、少なくとも旅の道連れにはなるだろうと考えた。

ウグナと僕はラクダに乗って砂漠に出た。砂嵐が近づいていたので急がなくてはならなかった。赤ん坊ラクダを助けることに責任を感じていた。

旅は数時間は順調だったが、すぐ道に迷った。ある家族のキャンプに出くわした。彼らは電線をたどって町に行くよう話した。ついに夕暮れ前に町に到着した。

110

ウグナと僕はまずおばを訪ねて父の言葉を伝えた。彼女はフースの儀式を執り行うことのできる音楽家を見つけるために僕たちを町の音楽学校に連れて行った。ある1人の男ができるだけ早く僕たちのキャンプに来ることに同意してくれた。

町の生活は僕たちのものとはずいぶん違っていた。電気や水道があった。通りは夜でも明るかった。市場でアイスクリームや洋服、自転車、オートバイを見かけた。とりわけテレビはウグナを魅了した。僕は任務をやり遂げるためウグナをテレビから引き離さなければならなかった。彼にはアイスクリームを買ってあげた。彼は大いに気に入った。

僕たちはおばの家で一泊し、次の朝早く、町を出発してキャンプに向かった。

111

翌日、その音楽家は僕たちのキャンプに到着した。僕たちはミルクティーを入れて彼を歓迎した。その後、フースの儀式が行われた。母ラクダと白い赤ん坊ラクダを砂漠に連れ出した。音楽家は母ラクダのこぶに馬頭琴をかけた。家族はみな何が起こるのか見守った。僕には馬頭琴が風を受けてかすかな音を立てているように思えた。

112

しばらくして音楽家は母ラクダから馬頭琴をおろした。母が歌いながら母ラクダの首筋をさすっているあいだ、彼は馬頭琴を弾いた。彼らはゆっくりと甘い歌を弾き、歌った。まるで母ラクダに「もうお前は母なんだ。赤ん坊の面倒を見なければいけない。」と言っているかのようだった。母ラクダは聞いているように見えた。奇妙なことに、彼女の目から涙がこぼれ始めた。彼女は泣いているのだった!赤ん坊ラクダはゆっくり母ラクダに近づいていった。彼女は赤ん坊を見つめ、においをかぎ、自分の下に押し込んだ。ついに母ラクダは自分の赤ん坊を受け入れたのだった!

ゲルに戻って僕たちは祝った。僕たちが歌を歌い、母ラクダが赤ん坊ラクダに乳を飲ませているあいだ、太陽が広くて寒い砂漠の向こうに沈んだ。生命と自然が秩序を取り戻した。/


2008年7月10日 (木)

EXCEEDⅡ lesson8

エクシードⅡ lesson8

Aboriginal Art in Australia

下の写真を見て欲しい。これはアボリジナル・アートの一例である。主題や色彩、表現手法は独特である。これらの特徴はどこから来たのだろうか?もし、多くのアボリジニーの人々が生きる自然に言及しなければ、この質問には答えられないだろう。この自然の1つの側面を少し見て見よう。

オーストラリアのクイーンズランドの最北端のケアンズとヨーク岬のあいだに、世界でも最古の熱帯雨林の1つがある。森には約120種類のヤシを含む800種以上の植物が密集して育っている。多くの生物もまたこの森に住んでいる。アボリジニーの人々は4万年以上のあいだこれらの動植物とともに暮らしている。

熱帯雨林の生物は現代のアボリジナル・アーティストを生み出してきた。ゼイン・ソーンダーズはそのうちの1人である。彼はキュランダの町で育ったが、それは熱帯雨林の真ん中にある。彼の絵は、鳥や野生動物を狩り、川で漁をするという伝統的なアボリジニーの生活様式を反映している。今日でも彼は森で野生のバナナや釣りに使うエサを集めながら長い時間を過ごす。彼は時々、たいまつと竹のやりを使って漁をする。彼の絵のほとんどは彼が森で見たり体験したりしたことから着想を得る。

「森に野営しに行くと、ディンゴのような野生動物と出くわす。ある日、私はバロン川の岸でディンゴの大群を見た。そのとき私は自分が森で狩りをしているディンゴを描きたがっていると知った。もしその場にいなかったら、私は着想を得られなかっただろう。」

マンダバリーはもう1人のアボリジナル・アーティストである。彼女もまたキュランダに住んでいる。最近、電気が彼女の家に引かれた。彼女はろうそくの光の下で描いたものだった。彼女の絵は赤、黄、白のような天然色の独特な組み合わせでいっぱいである。特定の模様や構図もまた彼女の作品の特徴である。彼女は自然を念入りに観察したあとイメージを非常に細かく描く。

「私は甲虫、トカゲ、あるいはヘビの小さな模様を見て、描くときにそれを思い出す。」マンダバリーは言う。時々、私は森で見た木々の葉や幹の模様をスケッチする。私の芸術のほとんどは先祖によって伝えられた物語に基づいている。物語は北部の人々や熱帯雨林についてのものである。私はそれらの意味について考え、それらが絵だと想像する。もし私がキュランダで生まれ育っていなければ、今ごろ別な絵を描いているだろう。」

アボリジニー人のさまざまなグループがオーストラリア中に住んでいる。彼らの言葉、生活様式、芸術形式はこの国のさまざまな地域で異なっている。しかしすべてのアボリジニーの集団を結びつけるある1つの要素がある。もともとアボリジニーの人々は狩猟採集民だったので、彼らは大地と非常に強いつながりを持ち続けてきた。このことは彼らの芸術に反映されている。

アボリジニーの文化は物語を話すことに基づいている。色鮮やかで象徴的な絵はドリームタイムとドリームタイム・ビーングについての物語に由来するが、それは過去と未来に存在する。文化のこの側面において、芸術は装飾的役割だけでなく、精神的役割も担っている。今日のアボリジナル・アーティストがドリームタイムの絵を描くのはこの精神的伝統のためである。/

For speaking

健太:クリスマスには何をするつもりですか?

ベス:だいたい家で過ごしますね。

健太:友達と大きなパーティーを開いたりはしないのですか?

ベス:しないですね。家族みんな、いつも家にいて例によってディナーに七面鳥を食べます。

健太:家族だけで、ですか?

ベス:姉の恋人などとても重要な人は招くこともあります。あなたもうちに七面鳥食べに来ませんか?

健太:そうしたいのですが、忙しくて都合がつきません。

ベス:まあ、それは残念です。


2008年6月26日 (木)

EXCEEDⅡ lesson7

エクシードⅡ lesson7

Nowhere man  ─行き場のない男─

ジョン・レノンはしばしば彼の世代に影響を与えた音楽家だと言われる。彼の考えや音楽は今もなお世界中の人々の心に訴える。彼の名前をよく知らない人々も彼の『イマジン』という歌は聞いたことがあるかもしれない。ジョンはこの歌を30歳のとき書き、この歌が彼を世界に“愛と平和”があることを望む男として有名にした。

自分の理想を見つける前に、彼は大人になることのあがきや苦痛を経験していた。彼は常に自分自身を探していた。当時、他の多くのティーンエイジャーと同様に彼は‘行き場のない男’だった。つまり若者の鏡だった。もし今でも彼の歌が人々を感動させるなら、それは彼の歌が青春時代の混乱した気持ちを表現しているからである。彼の歌は年齢に関わらず人々の心を動かした。

ジョン・レノンは1940年に英国のリバプールで生まれた。幼いときから、彼は独りでいることを好む繊細な子供だった。彼は勉強は大嫌いだったが、詩を書いたり絵を描いたりすることは大好きだった。彼は芸術家になることを夢見た。彼は大人のルールに従いたくなかった。そのように一部の教師にとって彼はやっかいな少年だった。

ジョンが15歳になったとき、夢が変わり、彼はロックのスターになりたいと思った。エルビス・プレスリーに影響され、彼はギターを弾くことに熱中した。彼のおばで育ての親であるミミは彼によく「もし私があなただったら、私はそんなに音楽に夢中にはならないでしょう。ギターも趣味としては結構ですが、それで生計を立てることは決してないでしょう。」彼は将来を確信を持っておらず、彼女に何と言うべきか分からなかった。中学生のとき、彼はすでに自分を見つけようとしていた。

17歳、18歳は彼の人生の転換期だった。彼に2つの重要なことが起こった。1つ目は彼がコンサートでポール・マッカートニーと出会ったことである。ジョンはすでにバンドを組んで地元で演奏していたが、ポールと出会ったことによって、この2人の若者は新しいバンド、ビートルズを作る気になった。2つ目は、彼の母親が交通事故で亡くなったことである。当時、親子は別々に住んでいたが、また一緒に住むつもりでいた。母親の死によって彼は愛に飢えたままとなった。

1960年にジョンとポールがビートルズを結成して数年後、すべてが順調に進み始めた。1964年、ビートルズは国際的にとても成功したロックグループになった。ジョンは世界中を旅するのに忙しかった。彼はやっと本当にしたかったことを見つけたと思った。しかし彼は次第に成功に不満になった。彼は思った。「何か重要なことが欠けている。僕が、今の僕とは違っていたらよかったのに。」

常に悲鳴を上げるファンに囲まれていたが、ジョン・レノンは不安だった。彼は友人に「僕は自分がまるで迷子の子供のように感じる。」と言いさえした。彼は誰かの助けを必要としていた。彼は自分の『Help』という歌の中でこの気持ちを表現した。別な『Nowhere Man』という歌で、彼は自分をどう社会に溶け込んだらよいのか分からない男だと言った。

彼にとって16歳から29歳までの年は辛い時期だった。後に彼は言った。「僕は若いとき反逆者だったが、愛され受け入れられたかった。何かに属したかったができなかった。多くのティーンエイジャーが大人になるために同じ苦闘を経験する。」『Nowhere Man』で彼は「彼は自分がどこに向かうのか分からない。君や僕にちょっと似てるだろう?」と歌ったが、そのメッセージはこうである。「心配いらない。僕たちはみんな同じ問題を持っている。希望を持ち続けよう。」/

For speaking

花子:お願いがあるんですけど。

ラジ:いいですよ、何ですか?

花子:数学の宿題にてこずっていて。

ラジ:それは聞く相手を間違えましたね。僕は数学が苦手なんですよ。

花子:本当ですか?インドの人はみんな数学が得意なものとばかり思ってました。

ラジ:それはインド人が‘0’を発見した民族だからですか?

花子:ええ。

ラジ:それはインド人について多くの人が持っている固定観念です。インド人がみんな数学が得意というわけではありません。


2008年6月25日 (水)

EXCEEDⅡ lesson6

エクシードⅡ lesson6

Wonders of Memory

人間の記憶には不思議なことがたくさんある。たとえば、なぜ私たちは過去に起こったことを記憶したり忘れたりするのだろうか?なぜでたらめな順番に並んだものは記憶するのが難しいのだろうか?なぜ他の人よりいい記憶力を持っていたり、年を取ってもいい記憶力を持っていたりする人がいるのだろうか?なぜ一晩で記憶された情報はとても簡単に消えてしまうのだろうか?

多くの科学者が記憶を研究し、‘海馬’と呼ばれる脳の一部が上の質問に答える鍵であることが分かってきた。脳のこの部分は記憶を作り出すのに重要な役割を果たす。海馬は新しい情報が重要かどうか決定し、それからその情報を記憶するか忘れるかを決定する。どうしてこのことが可能なのだろうか?科学者はこの質問に5通りの方法で答えている。

1に、もし何かにショックを受けると、強い電気信号が海馬に送られ、それが出来事を記憶する。こういうわけでいくつかの出来事が記憶に長くとどまるのである。同様に、もし何か、たとえばバスケットボールにとても興味があるなら、バスケット用語を記憶しそうである。このことは好奇心によって記憶が長引くことを暗示している。

2に、ある新しい事実がすでに知っていることに関連しているなら、海馬はそれをより記憶しそうである。たとえば下の一連の数字であなたの記憶力をテストしてみよう。もしすでに持っている知識とのある関連を見つけられたら、あなたはこの一連の数字をより早く記憶するだろう。どんな関連が見つけられるだろうか?

[ 1 8 3 6 5 4 7 2 9 0 ]

もし数分考えてそれでも答えが分かっていないなら、数字を1つおきに見て欲しい。どんなパターンが見つけられるだろうか?

3に、海馬は繰り返される情報を重要だと見なす。たいていの情報は脳内に数日から1ヶ月とどまる。もし何かをよく記憶したいと思うなら、この期間中に同じ情報を2回以上復習すべきである。

4に、海馬が記憶を蓄え整理するためには睡眠が必要である。次のような事例を考えてみよう。

次郎は今朝テストがあったのだが、彼はテストに向けて徹夜していた。彼はテストに出るいくつかのことを記憶しようとしていたのである。けれども最善を尽くしたにもかかわらず、テスト中に期待していたよりずっと少ししか記憶していなかったことが分かった。

多くの科学者は、睡眠中に整理されることを明らかにしてきた。そういうわけで、一夜漬けはあまり有効ではないのである。

最後に、海馬は練習に伴い成長する。ここに、ロンドンのタクシー運転手の海馬の大きさについての興味深い発見がある。彼らは約24,000の街路の詳しい地図を記憶している。ある科学者が16人の海馬の大きさを測った。その運転手たちは普通の人よりも多くの記憶細胞を持っていることが分かった。とりわけ興味深いのは30年の経験を持つある運転手の海馬は3パーセント成長していたという事実だった。

あなたたちの中には自分は記憶力が悪いと思っているかもしれない。しかし心配ご無用。試行錯誤で学んだり間違いをおかしたりしても差し支えない。これが私たちが新しい物事を学ぶ普通のやり方である。まあ脳をよく使うとよい、そうすれば海馬は生きている限り働いているだろう。/

Check it out

‘海馬’は人間の記憶についての質問に答える鍵である。第1に、もし何かにショックを受けたり興味を持ったりしたら、海馬はそれをよく記憶する。第2に、もしすでに知っていることに関連付けられたら、海馬はある新しい事実をよりよく記憶する。第3に、海馬は繰り返される情報を重要だと見なす。第4に、海馬が記憶を蓄え整理するためには睡眠が必要である。第5に、海馬は練習に伴い成長する。だから脳をいっぱい使えば記憶力はよくなるだろう。

For speaking

ウンスク:さあ、大阪に着きました。

直樹:じゃあ、今度は僕が案内する番です。どこ行きたいですか?

ウンスク:思いつかないのでお任せします。

直樹:分かりました。最初に繁華街に昼ごはんを食べに行きましょう。

ウンスク:いいですね!何を食べるのですか?

直樹:うどんを食べてみますか?

ウンスク:それは結構です。今は韓国でもうどんは食べられます。他に何かありません?

直樹:たこ焼きを食べてみませんか?大阪名物の。たこで作るんですよ。

ウンスク:おいしそうですね。楽しみです。


2008年6月24日 (火)

EXCEEDⅡ lesson5

エクシードⅡ lesson5

Kaneko Misuzu

大漁

朝焼小焼だ

大漁だ。

大羽鰮の

大漁だ。

浜は祭りの

ようだけど

海の中では何万の

鰮のとむらい

するだろう。

これは金子みすゞが書いた詩である。いわしは網で数千単位で捕らえられる小魚である。人々はいわしに価値があるとは考えなかった。いわしは市場で最も安い魚の一つである。けれども浜辺の人々が祝っている一方で、金子みすゞの目は大網で捕えられたいわしの悲しみに焦点が合わせられていた。この詩に見られるように、金子みすゞの詩の特徴は弱い生き物への深い同情にある。

金子みすゞは1903年に山口県で生まれ、わずか26歳だった1930年に死んだ。短い人生で、彼女は弱い生き物が主題である詩を書いた。

彼女の同情は生き物に限定されない。彼女の同情は畑の土のような無生物のものにまで向けられた。彼女はたとえば海の中の小石や昼間の空に浮かぶ星といった目に見えないものまで認めた。これらの種類のものは彼女の書いた512編の詩のうちの多くのものに登場する。

星とたんぽぽ

青いお空の底ふかく、

海の小石のそのように、

夜がくるまで沈んでる、

昼のお星は眼に見えぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

散ってすがれたたんぽぽの、

瓦のすきに、だァまって、

春のくるまでかくれてる、

つよいその根は眼に見えぬ。

見えぬけれどもあるんだよ、

見えぬものでもあるんだよ。

彼女の弱い者への深い同情はどこから来るのだろうか?彼女の人生に関する情報が十分になくて、この質問に答えることはできない。金子みすゞは仙崎に住み、そこでは人々が彼女がいつも静かに微笑んでいたことを覚えていた。彼女は決して他人の悪口を言わないとよく言われた。誰もが、何もかもが価値を持っていて、この世に存在するに値することを彼女は知っているようだった。いい例が次の詩であり、この中で彼女の考えがよく表現されている。

こッつん、こッつん、

打たれる土は、

よい畑になって、

よい麦を生むよ。

朝から晩まで、

踏まれる土は、

よい路になって、

車を通すよ。

打たれぬ土は、

踏まれぬ土は、

要らない土か。

いえいえ、それは、

名のない草の、

お宿をするよ。

金子みすゞの書き方もまた独特である。第1に、彼女は簡単な言葉で書いているが、それが深い考えも平易な言葉で表現できることを示している。彼女の書き方は大人が普段気付かない子供のようなものの見方を表現するのに役立っている。

2に、彼女は柔らかで自然なリズムで書いている。土の詩にある彼女の尋ね方と答え方を考えて欲しい。「要らない土か。」─「いえいえ、それは、…」この優しい口語のリズムは読者が彼女のメッセージを理解し考えるのを助ける。

金子みすゞの詩の主題と書き方の両方が、読者に思いやりの大切さを思い出させる。金子みすゞのどの詩を読んであなたはそう感じただろうか?/

65

金子みすゞは約100年前に生まれた詩人である。彼女は短い生涯の中で512編の詩を書いた。金子みすゞの詩の特徴は弱者への深い同情である。彼女の同情は生物だけではなく無生物にまで向けられた。彼女の詩のもう一つの特徴は、彼女の深い共感が柔らかで自然なリズムで、簡単な言葉で表現されていることである。彼女は生きていくうえでの思いやりの大切さを私たちに語り続ける。

For speaking

店員:いらっしゃいませ。こんにちは。

玲子:ピロシキください。ここのピロシキはハラショーだそうですね。

店員:あれ、ロシア語話せるのですね。

玲子:ハラショーだけです。ピロシキ30個ください。

店員:わかりました。少々お待ちください。

店員:どうぞ。他に何かお求めですか?

玲子:いいえ。でも、少し違っているみたいなんですけど。

店員:そうですか?

玲子:はい。30個と言ったのに、13個しかありません。

店員:失礼いたしました。

玲子:いいえ。私がもっとはっきり言うべきでした。


EXCEEDⅡ reading1

エクシードⅡ reading1

The Case of the Missing Will  ─謎の遺言書─

49

バイオレット・マーシュさんは足早にポアロの事務所に入っていすに座った。「私の依頼は少々変わっています、ポアロさん。」彼女は切り出した。

「そうなんですか?もしよろしければ私とヘイスティングズにすべてお話いただけますか、お嬢さん。」

「私は孤児です。父は私が6歳のときに死に、お金をほとんど遺しませんでした。母もその後すぐ死にました。ですので私は唯一生きている親類であるおじのアンドリューところに住み込みに行きました。彼はとても裕福でプリマスに近い村の大きな家に住んでいました。彼はベイカー夫妻という老夫妻に面倒を見てもらいました。おじはとても親切にしてくれました。ですが彼は女性は大学に行く必要はないと考えていました。この点に関しては、私はおじに賛成しかねました。私たちは何度も口論になりました。私は大学の奨学金を得て、通うことに決めました。おじはそれでも反対しました。私はついに『本当にいろいろありがとうございました。でも私は自分の人生を送らなくてはなりません。』と言いました。」

50

マーシュさんは言葉を続けました。

9年間前、彼の家を出ました。彼の考えは変わりませんでしたが、私たちは仲良くやっていましたし、彼の所へは定期的に行っていました。数ヶ月前おじが死んだのですが、とても変わった遺言書を遺したのです。1年間だけすべてが私に遺されました。その1年間で、私が教育によって聡明になったことを示さなければなりません。もし示さなかったら家も財産もすべて慈善事業に寄付されることになります。」

「何とも変わってますな。」ポアロが言った。「遺言書はお持ちですか?」マーシュさんが遺言書を彼に渡した。ポアロはそれに目を通した。

3年前に書かれていますね。日付は325日。ベイカー夫妻が署名しています。それと時刻に注目。午前11時ジャストです。普通、遺言書に時刻は書きません。これは調査されなくてはなりません。明日、早い時間に私とヘイスティングズがおじのお宅に伺いましょう。ベイカー夫妻はまだいらっしゃるのですか?」

「はい。」

51

翌朝、ポアロはマーシュ邸のリビングを歩き回った。本はきちんと並んでいて、書類は机の上にきれいに積まれていた。部屋にあるものすべてがきちんとしていてこぎれいだった。

ポアロは机の鍵に気付いてふと足を止めた。汚れた封筒が鍵からぶら下がっていた。‘机の鍵’と書かれてあった。

「何とも変わったものだ!」ポアロはそれを見て言った。「さて、ベイカー夫妻にお会いしたいものです。」

ベイカー夫妻は遺書に署名したことを覚えていた。実際、彼ら自身が遺言書の用紙を数枚買ったのだった。

「数枚買ったと?」ポアロがベイカーさんに聞いた。

「はい。2枚買いました。万一、彼が1枚をダメにするときけないので。」

「時刻は?」

11時です。」奥さんが言った。「ちょうどお昼の用意を始めたところでした。」

「では鍵についてですが。これはマーシュさんの筆跡ですか?」

奥さんはそれを見て言った。「ええ、おそらく。」

「最後の質問です。あなたが遺言書に署名して以来、この家に誰か入ったことはありましたか?」

「誰も。プリマスの職人さん以外は。」

52

「前進したね、ヘイスティングズ君。」ポアロが言った。「きっと彼は第2の遺言書を作り、隠し場所を作らせるためにプリマスの職人を邸内に入れたのだ。プリマスへ行こう。」

プリマスで、ポアロとヘイスティングズはすぐにマーシュさんのために仕事をした職人たちを見つけた。彼らは多くの奇妙な仕事をしていた。最も変わった仕事は、暖炉の中のレンガの1つの裏側に隙間を作ったことだった。

53

彼らは上機嫌でマーシュ邸に戻った。ポアロはリビングに行き、レンガを押した。穴があばかれた。その中には燃えた紙切れがあった。

「なんてこった!」ポアロが叫んだ。「ここではこれ以上何もできない。私たちの負けだ。」

ポアロとヘイスティングズは列車が発車するのを持っていた。ポアロは黙ったまま席に座っていた。ヘイスティングズは角で寝ていた。ちょうど列車が駅を出ようとしたとき、ポアロはさっと立ち上がった。

「降りろ、ヘイスティングズ君。降りるんだ。早く!」

54

彼らはホームに立ち、列車は夜の中に消えていった。

「ばかだ。おおばかだ。すぐ戻らなくてはならん。」

マーシュ邸に戻るとポアロはリビングに向かった。彼は机の鍵から封筒をはずした。封筒の中に遺言書が入っているのだろうか?ありえない。封筒は小さすぎた。

ポアロは注意深く封筒を開け、しわを伸ばした。それからろうそくに火をつけ封筒をかざした。

「ヘイスティングズ君、見たまえ。」ポアロは叫んだ。

かすかな筆跡が現れた。マーシュさんは姪のバイオレット・マーシュさんにすべてを遺すと書いてあった。日付は325日の12時半となっていて、地元の人2人によって署名されていた。

「こんな風にマーシュさんは姪のマーシュさんを試したのだ。もし彼女が教育によって聡明になっていれば、彼女は遺言書を見つけるだろうと。」

「だけど、彼女は遺書を見つけなかった。見つけたのは君だ。」ヘイスティングズが言った。

「いや、そんなこともないぞ、ヘイスティングズ君。彼女は専門家のところに行くほど聡明だった。私のところにね。」/

55

・マーシュさんはポアロの事務所に行き、彼女がとても変わった遺言書を読むのを手助けして欲しいと頼んだ。

・マーシュさんの話によれば、もし彼女が教育を受けて頭がよくなったことを示さなければ、マーシュおじさんの財産はすべて慈善事業に寄付されるとうことだった。

・ポアロは、普通は時刻までは書き込まないから遺言書に違和感を覚えた。

・ポアロとヘイスティングズはマーシュおじさんの家に行き、ベイカーさんに遺書のことを尋ねた。

・ポアロとヘイスティングズはマーシュおじさんのために仕事をした人に会いにプリマスに行った。

・ポアロとヘイスティングズはマーシュおじさんの家に戻り、燃えた紙切れを見つけた。

・列車が出るのを待っているとき、ポアロはマーシュおじさんの家に戻らなくてはいけないことに気付いた。

・彼は封筒をろうそくの火にかざしてかすかな筆跡を浮かび上がらせた。


2008年6月23日 (月)

EXCEEDⅡ lesson4

エクシードⅡ lesson4

A Model of the Atomic Bomb Dome

「何年か前に生徒によって作られたものと似たような原爆ドームの模型を作りたいです。」恩田敏夫さんはクラブ顧問の関根先生に言った。恩田さんは埼玉県小鹿野高校2年生の生徒で、天文地学部の部員だった。彼は広島への修学旅行から戻ってきたばかりだった。

「何で作りたいと思うのですか?」関根先生が聞いた。

「燃え尽きた原爆ドームを見てとてもショックを受けました。死にかけている人々の叫び声が聞こえたと思うほどでした。」こうして恩田さんはドームの模型を作り始めたが、すぐに多くの疑問が浮かんだ。「壁は何でできているのか?ドームの円形はどう作られているのか?」

彼は半年間、一人で取り組んだ。恩田さんがこの計画に苦労しているのを見て、1年生の入沢さんが彼に加わった。2人は試行錯誤でドームの模型を何度も作り直した。

彼らは模型に一生懸命取り組んだものの、満足しなかった。彼らは模型の何がいけないのか知るために実物のドームを見に行くことに決めた。広島で、彼らは4時間以上もドームを眺めながらその前に立っていた。彼らはドームの写真を取り、ビデオに録画し、スケッチさえした。彼らはまた被爆体験の語り手である吉川生美さんの話を聞きもした。

「何千という人々が一瞬のうちに吹き飛ばされ死にました。彼らの皮膚は焼け爛れていました。その光景は地獄のようでした。」

彼女の話を聞いているうちに、彼らは犠牲者を忘れないためにドームの模型を作り続けるべきだといっそう強く確信した。

彼らが戻ってきて再びドームに取り組み始めたとき、部の他のメンバーも彼らに加わった。一緒に、彼らは戦争の歴史や原子爆弾、被爆生存者を勉強した。

生徒たちの努力に心を動かされ、関根先生は外国の生徒に彼ら自身のドームの模型を作るよう勧めてはどうかと提案した。そこで小鹿野高の生徒たちは多くの国々の生徒にメッセージを書いた。彼らはまた、自分たちの模型の写真と模型の作り方を説明したマニュアルを送った。

やがて多くの国々(いくつか例を挙げるとスウェーデン、トルコ、スリランカ、ザンビア、タイ)から返事が来た。最も熱心だったのはロシアのイルクーツクの生徒たちだった。彼らは小鹿野高の生徒たちにイルクーツクにいる自分たちを訪問して欲しがってさえいた。

夏休み期間中、恩田さんと数人の生徒たちはロシアに行ってロシアの生徒たちとともにドームの模型を作った。けれども最終段階になって模型が崩壊した。彼らはこの失敗に落胆したが、この計画の重要性を再考し、再び作り始めた。ついに彼らは模型を完成させ、戦争や原子爆弾の恐ろしさついて話した。その夜、彼らは平和のための灯篭を川へ流した。

旅行後まもなく、チェコのスタブバル高から小鹿野高に1通の手紙が来た。その手紙には、生徒たちが小鹿野のマニュアルの助けを借りてドームの模型を完成させたと書いてあった。小鹿野高の生徒たちは千羽鶴を折ってスタブバル高に送った。2000年、スタブバルの生徒数人が小鹿野に来て、小鹿野高の生徒たちと広島を訪れた。交流プログラムは続いている。

卒業後、恩田さんはドーム計画に関わり続けた。最近、彼は言った。「高校生だったころは、いつも犠牲者の方々のことが気にかかっていました。この計画が多くの若い人たちに続けられてうれしいです。将来、被爆された方はいなくなってしまうでしょう。みなさんには多くの高校生たちが作ったドームの模型を見て原爆を思い出してほしいです。」/

For speaking

彰:日本を出発してヨハネスバーグに向かうのはいつですか、ムベキ先生?

ムベキ:731日です。

彰:先生の授業がなくなると寂しくなります。本当に楽しかったです。

ムベキ:私もとても楽しかったですよ。

彰:南アフリカのことをいろいろ教えてくださってありがとうございました。

ムベキ:こっちこそ。どういたしまして。

彰:ささやかなものですがどうぞ。寄せ書きです。

ムベキ:まあ!最高ですね。ありがとう。

彰:クラスの全員が先生に何か書きました。

ムベキ:ずっと大事にしますね。


2008年6月22日 (日)

EXCEEDⅡ lesson3

エクシードⅡ lesson3

Messages from the Sea  ─海からのメッセージ─

君は今まで海でダイビングをしたことがあるだろうか?もしあるなら、たぶん海の生物には多くの生き方があることに気付いただろう。変装するものもいれば大きな群れで暮らすのもいるし、さらにまた他の生物と協力するものもいる。これらを順番に見ていこう。

下のこのカサゴのように、丸見えのところに隠れるものもいる。彼らは環境に似せることによって隠れる。彼らは周囲の岩の色に調和するよう色を変える。

このように隠れることにはカサゴにとって2つの利点がある。1つはカサゴがまるで岩のように見えるので、小さな魚が岩の間でじっとしているカサゴに気付かないことである。小さな魚は無邪気に通りすぎる。するとカサゴは飛び出して彼らを捕まえるのである。もう1つの利点は、大きな魚は狩をしているときカサゴを見つけられないことである。これはカサゴが大きな魚のご馳走にならなくてすむことを意味する。

他には群れていると安全だと感じる魚もいる。イワシがそうである。彼らは大きな群れで生活し移動する。時々数千匹のイワシが海の中を一緒に泳ぐ。大きな群れで生活することで彼らはより大きな魚から身を守る。たとえばマグロはイワシを襲って食べたいと思うかもしれない。しかし群れでいると彼らは大きな1匹の魚のように見える。そのためマグロは彼らを襲うのをためらう。

大きな群れで生活することにはもう1つ利点がある。たとえばカツオは一緒に移動し、一緒に狩をする。ご馳走に手ごろな魚を見つけると、カツオはその魚を囲んで食べる。襲われた魚は逃げる術がない。

大きな群れで生活することには欠点もある。主な欠点は人間からもたらされる。漁船がイワシやカツオの群れを見つけたときは、何百もの魚をいっせいに捕まえることはとても簡単なことである。

すべての海の生物が襲ったり襲われたりするために生きているのではない。多くの海の生物は互いに助け合っている。そのいい例の1つがクマノミとイソギンチャクである。

イソギンチャクはクラゲのように見えるが、動き回ることができない。それとクラゲのように数千の有毒の触手を持っている。肌が特殊な皮膜で覆われているので、クマノミはこれらの触手の間で生活できる。こうしてクマノミは自分を食べようとするより大きな魚から身を守る。お返しに、クマノミは食べこぼしを落っことしてイソギンチャクが食べるのを助ける。

このようにして、とても異なる海の生物が互いに助け合う。イソギンチャクはクマノミに生活するのに安全な場所を与え、クマノミは相手にえさを取るのを助ける。

海の生物から私たちへ何かメッセージはあるのだろうか?一部の研究者はイエスと言うだろう。

1に、カサゴが示したように、私たちは時として環境に適応する必要がある。このことは私たちが危険な時や場所を生き延びるのに役立つ。それからイワシを考えて欲しい。イワシは大きな群れで泳ぎ、大きな魚から身を守っている。人間も時々これと同じことをする。私たちは身を守るために集団を作る必要がある。

3に、クマノミとイソギンチャクの協力が示すように、強みは多様性にある。違いをまとめることによって、私たちは今まで以上に強くなれるかもしれない。

海の生物は海の生物であり、人間は人間である。しかし海の生物は私たちへメッセージを持っているのかもしれない。/

For speaking

リー:こんにちは。久しぶり。

恵子:久しぶり。元気にしてました?

リー:順調ですよ。恵子は?

恵子:私も元気でした。あの、何か変わったことありません?

リー:特に何も。あ、そういえば日曜日の午後にボランティアがあります。富士見公園で草刈します。一緒にやりませんか?

恵子:ええーと。そのとき忙しいかも。友達と映画見に行くので。券も買ってしまいました。

リー:分かりました。ではまた今度。


2008年6月21日 (土)

EXCEEDⅡ lesson2

エクシードⅡ lesson2

New Rules for Themselves

あなたは今まで“ドリームリーグ”のことを聞いたことがあるだろうか?それは日本の体の不自由な人々のための野球リーグである。それはアメリカのメジャーリーグや日本のプロ野球リーグほど有名ではない。現在、ドリームリーグには30のチームに約800人の選手がいる。

上側の、球を投げている男性の写真を見て欲しい。彼は名古屋ビクトリーチームのピッチャーである。彼は片腕だけでプレーし、球を取ることも投げることも上手にできる。もう1枚の写真でバッティングをしている男性がいるだろう。彼は神戸コスモスでプレーしている。彼は俊足のランナーであるだけでなく、いいバッターでもある。これらの写真は体が不自由な人々も野球を楽しめることを示している。

神戸コスモスはドリームリーグのチームである。体が不自由な子供たちのための学校出身の11人の生徒が約30年前にこのチームを結成した。彼らはプロ野球選手の福本豊氏によって野球をするよう勧められた。彼は言った。「ルールのせいで野球がプレーしにくいなら、君たちの能力に合うようにルールを変えてはどうか?」

体が不自由な人々にとって新しいルールを作るのは簡単ではなかった。たとえば、もし松葉杖に投球があたったらバッターは一塁に進むかどうか考えた。松葉杖は体の一部と見なされるので彼らはバッターは進むということにした。このようにして、必要があるときは、彼らは彼ら自身のルールを作った。「最も大事なことは私たちが野球をするのを楽しむことです。」選手の一人が言った。

写真の男性は体の不自由な子供たちのための学校の先生である。彼自身、体が不自由である。神戸コスモスにいて自分でポーツの楽しみを知ったあと、彼は先生になった。彼の生徒の心配は彼が上手にプレーできるかどうかということだった。

ある日、彼は生徒も体育の授業で野球をしようと提案した。最初、生徒たちは彼の提案に乗りたがらなかった。しかし生徒たちは彼らがルールを変えてもいいと聞くと、彼らも野球ができると確信した。彼らの新ルールによれば、バッターはバットとしてラケットを使うこともできる。ボールをキャッチャーのところまでずっと投げられないピッチャーはもっと近づくことができる。今では野球は彼らのお気に入りのスポーツである。

2001年に若いメンバーが神戸コスモスに加わった。彼は交通事故で左足を失っていた。最初、交通事故は彼から未来を奪ったかに思えた。けれども入院しているとき、彼は人生の明るい面を見ようとした。ちょうどそのとき、彼はたまたまインターネットで神戸コスモスのことを知った。彼は退院後すぐにこのチームに加わった。

現在、彼の両親は彼が野球をしているのを見て喜んでいる。両親は言う。「野球をする前は、彼はいつもテレビゲームをしていつも部屋で一人きりのようでした。野球のおかげで彼はチームスポーツをすることに楽しみを見出しました。」

スポーツは体が不自由な人も参加できる活動である。スポーツはフェアプレイとチームワークを教えるのに重要な役割を持った。何よりも、スポーツはみんなに人生の楽しみ方を示してくれる。/

For speaking

健二:大英博物館へはどう行けばいいのか教えていただけませんか?

アデル:うーん、一番いい方法はチューブに乗ってラッセルスクェア駅で降りることだと思います。

健二:失礼、もう一度おっしゃっていただけますか?

アデル:ええ。チューブに乗ってラッセルスクウェア駅に行くのがいいと言いました。

健二:チューブ?チューブとはどういう意味でしょうか?

アデル:チューブとはロンドンの地下鉄のことです。丸いのでそう呼びます。

健二:なるほど。ロンドンの地下鉄はとても便利だそうですね。

アデル:ええ。それに乗れば町のどこにでも簡単に行けます。


より以前の記事一覧