2008年7月15日 (火)

EXCEED READING lesson10

エクシードリーディング lesson10

Costa Rica:Nature and Peace

コスタリカは中央アメリカに位置する小さな国である。九州と四国をあわせたくらの大きさである。コスタリカはいくつかの点で特殊な国である。

コスタリカについて私たちを最初に驚かせるものは、自然の美しさである。国土の27パーセントは、環境を荒らしてはならない国立公園か自然保護区である。産業廃棄物や汚染水はよく管理されている。世界の全動植物の種の5パーセント以上がこの小さな国で生きている。種の密度は世界の中で飛びぬけて高い。この国では珍しい動物や鳥を見ることもできる。たとえば熱帯雨林では世界で最も美しい鳥の1つであるケツァールを見ることができるが、それは手塚治虫による物語の中の空想的な鳥である「火の鳥」のモデルだった。ビーチでは卵を産みに来るウミガメを見ることができる。

コスタリカはエコ・ツーリズムで有名である。旅行者の数は年に100万人を超すまでになり、なお増え続けている。旅行者は熱帯雨林の自然を探検することができる。今では世界中の国々で熱帯雨林が破壊されているが、コスタリカでは熱帯雨林は毎年1.5パーセントずつ増えている。これはコスタリカ政府がコスタリカの経済政策を変えたからである。主要産業が、コーヒー栽培や牛飼育からエコ・ツーリズムや熱帯雨林の植物で新薬を作ることに変えられてきたのである。

どうやってコスタリカ人はエコ・ツーリズムを行い、それにもかかわらずコスタリカの自然を守っているのだろうか?1つの方法は旅行者が吊り下げられたワイヤーの小道を移動するというものである。熱帯雨林を訪れると、旅行者は木から木へと、木々をつなぐワイヤーの小道の上を歩く。これが木の根や他の植物を守る。これらの熱帯雨林の植物は、科学者に、ガンのような病気を治療する新しい方法をもたらしてきた。

コスタリカ人は学校で自然の守り方を学ぶ。子供たちには自然環境についての特別授業がある。子供たちは木々を植え、熱帯雨林を歩き、熱帯雨林を傷つけない方法を学ぶことによって自然を体験する。

自然と野生動物を保護することは人権を保護することにつながる。コスタリカの人々は、子供たちはみな学校で勉強をする権利を持たなくてはならないと信じている。体に不自由がある生徒たちも他の生徒たちと同じ教室で勉強する。2009年までに、全部の学校がバリア・フリーになるだろう。

特別授業だけではなく、通常の授業でも子供たちは平和な社会を築く方法を学ぶことができる。子供たちはしばしば話し合いを通じて問題を解決するよう求められる。これは子供たちの平和教育の一環である。たとえばある授業で、子供たちはけんかをした生徒たちの問題をどうやって解決すればいいかについて話し合う。子供たちはまた社会問題について話し合い、国政選挙の模擬投票に参加さえする。こうして子供たちは学校にいるあいだに社会問題に関心を持つようになる。

1980年代から1990年代初期、中央アメリカの国々では紛争が多発していた。コスタリカは戦闘に加わらなかった。というのは、コスタリカの国民は、問題は、戦闘によってではなく交渉によって解決することが重要だと信じていたからである。コスタリカの指導者たちはグアテマラやニカラグアやエルサルバドルでの戦闘を終わらせるのを助けた。彼らの仲裁努力が実を結び、紛争が終わった。平和構築の際の役目により、アリアス大統領は1987年にノーベル平和賞を授けられた。

カレン・オルセンさんは、彼の夫はコスタリカ元大統領だったのだが、2002年に日本を訪れた。彼女は学校の子供たちに言った。「平和とは戦争がないことだけを意味するのではありません。平和とはまた貧困や差別、自然環境の破壊がないことも意味します。」コスタリカはこの世界に積極的に平和を作り出そうとしている国なのである。/


2008年7月14日 (月)

EXCEED READING lesson9

エクシードリーディング lesson9

Pole to Pole 2000

Pole to Pole’、若い男女8人のチーム─アメリカから2人、フランス、カナダ、アルゼンチン、南アフリカ、韓国、日本からそれぞれ1人ずつ─は南北両極間の26,000キロを歩き、スキーですべり、自転車で走った。彼らは200045日に北磁極を出発し、20001230日に南極に到着した。9ヶ月の旅のあいだ、彼らは日記をインターネットで一般に公開し続けた。ここにそのいくつかの書き込みがある。

45日(北磁極)ジェシカ

マイナス35度というものが実際どう感じられるものなのか誰もよく分かっていなかった。直接5枚重ねの服を突き抜けるかのように痛かった。遅く出発した。1時間半移動し、少し温まったら今日の仕事は切り上げた。もう午後7時なので。言えるのはただwowだけだ。

514日(カナダ)ハイジ

今日は自転車で優に250キロ走った。もう少しで凍りそうな川や深い森のそばを走ったとき、景色がきれいだった。ユーコンの荒野にいると生きていると感じる。

531日(カナダ)ジェイ

午前中、“すばらしいバンクーバーを”に参加した。チームのみんなは数時間、浜辺のごみを片付けた。…多くの人々が働いたからとてもきれいな浜辺を見るのは素晴らしかった!

711日(アメリカ)ナオキ

今日、僕たちは5,000人以上の人々から集めた誓いの言葉を届けるためユネスコの事務所を訪れた。誓いの言葉は“小さなステップで大きな変化をもたらす”ものだった。考えや気持ちを共有した多くの人々に感謝を申し上げたい。

815日(アメリカ)ジェシカ

今朝、フェニックスにあるホームレスの子供たちのための学校であるパパス小学校でプレゼンテーションをする素晴らしい機会を得た。毎朝バスが出て行って街角にいる子供たちを探して学校につれてくる。先生と子供たちに強い感銘を受けた。彼らはとても注意深くて元気いっぱいだった。

910日(コスタリカ)レノ

ニカラグアやホンジュラスの後では、コスタリカはとても近代的に見えた。世界の同じ地域でこんな大きな違いを見つけられるのは驚くべきことだ。コスタリカが今、享受している平和と民主主義は市民の福祉に大きな役割を果たしている。

1016日(ペルー)ディラン

僕はずっと自分に苦しんでいて、自分のすることすべてに疑問を投げかけている。たとえば僕は判断ミスをし続けている。それに僕は責任を負うべき立場にいられない。一方、レノは自分の仕事をずっと早くずっとうまくこなし、はるかに他のメンバーの役に立っている。だから彼は僕より優れているのではないかという思いにとらわれた。

1026日(ボリビア)メルセデス

私はデイ・リレーで最初だった。というのもいつもは最初のデブリンがフレー・デイだったからである。フリー・デイとは残りのメンバーが自転車で走っているあいだ車の中にいて車を管理するのが許されるということを意味する!今日の距離はぜんぜん長くなくてわずか47キロ。

1126日(チリ)デブリン

今日はこの8ヶ月間過ごしてきた生活の最後である。北米、中米、南米の貫く巨大な距離を旅してきて、僕たちはとうとうチリのプンタ・アレナスに到着した。

1216日(南極)ジェイ

僕たちは今、違った種類の困難に直面している。僕たちがするのは待つこことだけのようだ。僕たちは10日間、パトリオット・ヒルズで天候がよくなるのを待ちながら過ごしている。しかし天候はまだ飛べるほどには安全ではない。

1230日(南極)メルセデス

Pole to Poleは今日で終わる。これまでの9ヶ月と同様今日も素晴らしい1日。夢は実現し、僕たちは南極で笑い、泣き、遊んでいる。

1231日(南極)ハイジ

何と言ったらよいか分からない。言いたいことはたくさんあるが、説明する方法がない。終わり。南極。チームを離れる悲しみ、将来の興奮と不安。Pole to Poleの代わりに行く場所がもうどこにもないという混乱。/


2008年7月13日 (日)

EXCEED READING lesson8

エクシードリーディング lesson8

The Little Tern

私はアジサシである。海が暖かくなる季節に生まれた。陽の光が日ごとに長くなっていく頃だ。私のすみかはずっと青緑色の海の上だった。起きている時間のほとんどを、海面に魚が現れるのを待ちながら海の上を飛んですごした。快適な生活だった。私はいつもそうして生きてきた。

けれどある日、すべてが変わった。私は飛べなくなった。どこが壊れたのか自分の体を調べ始めた。翼、羽、足、尾を1度、2度、そしてさらに何度も調べた。私は大丈夫そうだった。壊れたところも無くなったものも見つけられなかった。そこで私は壊れたものは自分の心の中にあるに違いないと考えた。

友達が興味ありげに私を眺め、なぜ飛ばないのかどうしても聞こうとした。本当のこと─それについては私はまったく確信がなかった─を言うかわりに、私は浜辺に隠されたおいしい食べ物を見つけながら浜辺の冒険を楽しんでいるのだと話した。

この間、私は夜になると空を観察した。星たちが私の友達になった。私が出会ったある特別な星が空の北東のすみにかかっていた。それは落ち始め、そして急に止まり、また落ち始めてまたしても急に止まった。私は聞いた。「星さん、何であなたはそう気まぐれなの?」

「気まぐれ?僕はそのようにして存在する。他の星を点検するのが僕の仕事。」星が答えた。

「星を点検する理由は何?」

「理由?星でいるため、星らしく生きるため、星の義務を果たすためだと思う。すべてのものは目的を持っている。」

「鳥も?」私は聞いた。

「そうだよ。鳥の目的は鳥でいること。」

そう言うと星は闇夜に消えていった。

冬と春がすぎた。私は昼も夜も波が砂浜にあたって砕けるのを聞いていた。たとえ地上で生きているとしても、いつかまた空を飛ぶのだという希望はけっして捨てなかった。

ある日、可憐な花が砂浜で育っているのを見た。素敵な花だった。明けても暮れてもそれを観察した。それは一色のモノクロ画だった。何の色彩の変化も見て取れなかった。しかしある日、外見上のモノクロのなかに、それ以外のたくさんの色彩あるのではないかとふと思った。その後、外見上のモノクロには予想していた以上のものがあることに気付き始めた。私は観察するため多くのものを浜辺に集め始めた。

時はゆっくり流れた。一緒に話のできる友達が欲しくなってきた。そのとき小さなカニに気付いた。それは彼がカモメに襲われていたとき助けてあげたカニだった。私たちは友達になって話し始めた。私は彼に飛べないことの悲しみを語った。

「君は飛ぶ能力を失ったのではなくて、置き忘れてきただけ。」彼は簡単にそう言った。

「それはどういうこと?」私は聞いた。

「物を失うということは、それが失われてしまってもう無いということ。置き忘れたというのとは全然違う。君が置き忘れてきたものはどこかにある。それを見つけるということは、それに気付くということ。君はそれが分かっていなかっただけ。」

「たとえば、どんな?」

「たとえば君が集めてきたような物。」

カニと別れたあと、私は毎日、物を調べては収集し、もっと調べ、注意を払った。たぶんカニは、私が時間を浪費することと時間から学ぶことの違いを知るのを助けてくれようとしたのだと思う。

数日後、浜辺に映る自分の影を見つめていたある午後、カニが現れていたのに気付いた。彼はしばらく私をじっと見ていたが、こちらに手を振るかのように右手を上げた。それに応えてごく自然に、あまり考えずに、私は手を振り返そうと翼を上げた。翼は風をとらえ、私は空へと舞い上がった。私は白い波しぶきを見つめながら浜辺の上を滑空した。

私は空へと戻っていた。/


2008年7月 1日 (火)

EXCEED READING lesson7

エクシードリーディング lesson7

Shima-uta to the World

フォークソング、すなわち民謡は地方から来た歌である。民謡は多くの世代にわたり人々に方言で歌われてきた。民謡は祝賀や祭りのようなさまざまな行事で歌われる。民謡はそれを歌う人々の生活を反映していると言える。

沖縄の島唄は民謡の一種である。それは沖縄の音楽に特有な6音音階を持っている。一つの島唄はこうである。

祝賀の日に

愉快に過ごそう

一晩中

夜が明けるまで

(かりゆしぬ遊び

うち晴れてからや

夜ぬ明きて太陽ぬ

上がるまでん)

島唄は第2次世界大戦の終わりまで禁止されていた。なぜならそれは沖縄の方言であるウチナーグチで歌われていたからであるが、それもまた禁止されていた。けれども戦後、音楽のこのスタイルは再び盛んになった。近年、それはとても人気になったので、若者向けの歌がこのスタイルで歌われた。それらの1つがロックバンドのThe Boomによって歌われた『島唄』である。

The Boom1986年に4人の若者によって結成された。彼らの1人、宮澤和史は沖縄音楽に魅了され、『島唄』という歌を書いた。それは最初、1992年にウチナーグチで歌われた。それは沖縄でヒットした。その後、この歌は標準的な日本語でリリースされ、再び多くの人々の心を捕らえた。当時人気のあったロック音楽と比べると、『島唄』のシンプルな響きを聞いて、人々は青い海と沖縄の人々の心を思い出した。

『島唄』にはいくつかのバージョンがある。次のバージョンは宮澤と英国人歌手のイジーによって歌われた。ここにその歌の歌詞がある。

でいごよ、私たちの手にある花よ

遠い風が雲の下でそよぐ

でいごよ、私たちが失った花よ

遠い風が嵐を呼ぶ

私は心の奥深く悲しみを抱く

海の岸を渡る風のように

(ウージの森で あなたと出会い ウージの下で 千代にさよなら)

島唄よ、私の島よ、風に乗りなさい

海の波を渡って鳥のように共に飛びなさい

島唄よ、私の島よ、風に乗りなさい

そして海の波を渡って私の涙を届けておくれ

(でいごの花も散り さざ波がゆれるだけ ささやかな幸せは うたかたぬ波の花)

私たちが森で始めて歌ったウージは緑で金色

今、私は最後の別れをその木の下で最後の別れを叫んだ木の下に立つ

(島唄よ 風に乗り 鳥とともに 海を渡れ 島唄よ 風に乗り 届けておくれ 私の愛を)

島唄よ、私の島よ、風に乗りなさい

海の波を渡って鳥のように共に飛びなさい

島唄よ、私の島よ、風に乗りなさい

そして海を渡って私の涙を届けておくれ

島唄よ、私の島よ、風に乗りなさい

そして海の波を渡って私の愛を届けておくれ

多くの日本人リスナーがいるのに加え、この歌はまた海外の人々の注意も引いた。たとえばアルゼンチン人歌手のアルフレッド・カセーロは『島唄』の別なバージョンをリリースしたが、それは2002年にアルゼンチンで大ヒットした。この歌はアルゼンチンの人々にとても人気になったので、2002年に日韓で行われたサッカーのワールドカップの応援歌として使われた。モンゴルでは同年、国際フェスティバルで、モンゴル国立オーケストラが日本を象徴する曲として『島唄』を演奏した。

The Boomの『島唄』が成功したのは伝統的な沖縄民謡のスタイルを用いたためである。このことは沖縄音楽が世界中の人々に愛されうることを示している。この人気がどこから来たのかはよく分からない。知ってさえいればいいのだが。しかし地理的な位置のせいで沖縄は歴史の始めから異文化間の接触があったことは分かっている。/


2008年6月30日 (月)

EXCEED READING lesson6

エクシードリーディング lesson6

Winnie-the-Pooh

クマのプーさん(ウィニー・ザ・プー)は英国の作家、アラン・アレグザンダー・ミルンによって書かれた。彼には息子のクリストファー・ロビンがいた。彼はクリストファーをとても愛し、毎日息子が遊んでいるのを見て楽しんだ。クリストファーが4歳のとき、一家はロンドン動物園に行った。動物園にはウィニーという名のクマがいて、それは子供たちにとても人気があった。クリストファーがウィニーを見たのはそのときが初めてだった。クリストファーはウィニーがとても好きになったので、彼は自分のぬいぐるみのクマにウィニー・ザ・プーと名付けた。プーという名前はミルン一家がよく休暇を過ごしたロンドン近くの湖の白鳥に由来すると言われている。英国の田舎のこの場所はミルンに霊感を与えた。もし彼がそこに住んでいなかったら、彼はウィニーの冒険世界を作り出すことはなかっただろう。この世界で、彼と彼の息子の気に入りのぬいぐるみの動物は一緒に生活し遊んだ。

この本は幼い子供たちと同様に多くの大人によって読まれてきた。くまのプーさんが初めて出版されたとき、この本を買って読み始めたのは親のほうで、子供たちは親に倣って読んだと言われる。なぜこの物語はあらゆる世代にとても人気があるのだろうか?

理由の一つは、それが魅力的な言葉の表現技術を使っていることである。たとえば、第3章はこんな風である。

ピグレットはブナの木の真ん中の立派な家に住んでいました。そのブナの木は森の真ん中にありました。そしてピグレットは家の真ん中に住んでいました。

“真ん中”という言い回しを繰り返すことで、この物語を詩的にし、読んで面白くしている。

もう一つの例は第7章で使われているしゃれである。さて、2匹の動物が森にやってくる。1匹の動物の名前はカンガ、もう1匹の名前はルー。読者は彼らがカンガルーだと分かるから、このしゃれが物語を楽しくさせる。

クマのプーさんには魅力的で楽しくさせる言葉以上のものがある。プーさんは単純で彼の冒険や彼の友達の冒険はばかばかしく思えるかもしれない。けれども、私たちみんなへのメッセージを持っている。2つの話のメッセージを考えてみよう。

ご存知かもしれないが、第1章でプーさんは木の高いところに住んでいるミツバチの蜂蜜が欲しいと思う。蜂蜜にたどり着くため、彼は木に登ろうとして失敗する。そこで彼はミツバチをばかにすることに決める。彼は風船をしっかり握り、空に飛び上がり、小さな黒雲のように見せようとする。もちろん彼は失敗する。ミツバチは彼を発見し、プーさんは逃げなければならない。

この話の面白みはプーさんのばかげた考えにある。この話の人々をばかにしようすべきではないということである。それについてはみつばちについても同様である。

その上、クマのプーさんの話には友情と寛容の大切さに関するメッセージがある。

たとえば、第7章で見たように、カンガとその子のルーのカンガルーたちが森に現れる。そこに住む動物たちはみな驚き、たんにカンガとルーが新顔で前から住んでいる者たちと違うというだけで彼らを毛嫌いする。それで彼らはカンガルーを追い出そうとする。彼らはカンガが見ていないときにルーを連れ去り、カンガを驚かせるために彼女の袋にピグレットを入れる。しかし自分が隠された家で、ルーは家の住人の小さなウサギと結局楽しい時を過ごすことになる。ルーはプーさんにジャンプの仕方さえ教える。時がたつにつれて、森の動物たちはカンガルー親子を受け入れ、友達になる

このエピソードは私たちに、自分たちと違っている人々、あるいはカンガルーへの偏見を持つべきではないということを教えてくれる。/


2008年6月29日 (日)

EXCEED READING lesson5

エクシードリーディング lesson5

The Silk Road

見知らぬもの同士が出会ったとき何が起こるのだろうか?私たちはシルクロードからいくつかの答えを得ることができる。商人が利用した一連のルートであるシルクロードは中国から中央アジアを越えてはるばるトルコやイタリアまで行く。中には中国から北へ向かいモンゴルを抜けるルートもある。他にはアジアの中央を進むルートもある。そのルートはまたペルシャ湾沿いに南に延びてもいる。

何千年ものあいだシルクロードを行く商人たちは絹を運んだ。しかし絹だけではなかった。衣服や衣料品、ガラス、陶磁器、宝石、香辛料、薬のような他の物もシルクロードを東西に行き来した。単なる商品以上のものもシルクロードを移動した。

シルクロードは私たちに人間の文化がどのようにして一緒になることができるかの多くの例を示す。商品と物、文化と人間活動、言語間の接触の話がある。これらの話は正確には何だろうか?

シルクロードは部分的には物的商品の話である。多くの人々が家庭で陶磁器を使う。多くの人々は陶磁器が中国に由来することを知らない。数世紀に渡り、何千もの熟練した職人が中国南部の豊富な粘土から花瓶と皿を作った。私たちが現在知るような青と白の陶磁器は裏に面白い話を持っている。花瓶と皿の青い色はもともとペルシャから来た。それはシルクロード沿いで取引され戻ってきた、つまり青い色が東に向かい完成した皿が西に向かったのである。

スポーツの話もある。私たちはポロをヨーロッパのスポーツだと思うかもしれない。実は、ポロはブシュカシという中央アジアのゲームに由来している。これは荒々しいゲームで、そのゲームでは選手は強く、勇ましく、優れた騎手である必要があった。これらの能力はまさにシルクロードの強盗が商人を襲い、彼らの商品を持ち去るために必要とされた。

シルクロードを移動したのは陶磁器や宝石や香辛料だけではない。言語や音楽もまたシルクロードを移動した。弦楽器を例に考えて欲しい。中央アジアでは、エクタールと呼ばれる一本弦の楽器が演奏される。タールは弦を意味し、エクは一を意味する。イランではドゥタールが演奏されるが、これは文字通り二本弦を意味する。インドの音楽家は多弦楽器のシタールを演奏する。しかし言語と音楽の文化交流はここで止まらない。

15世紀、スペインの音楽家は弦を四本持つ似たような楽器を使った。彼らはそれをギターラと呼んだ。やがて、それは私たちが現在知っているような六本弦のギターになった。もしギターがなかったら、現代音楽はずいぶん違ったものになっているだろう。これらの楽器の名前から判断して、音楽と言語がシルクロードを行き来し、今日に至るまで残っていることが分かる。

それで見知らぬもの同士が出会ったとき何が起きるのだろうか?

チェリストのヨーヨーマによると、見知らぬもの同士が出会うと彼らは商品と考えを共有する。彼らは最高の職人によって生み出された最高の商品を売買する。最後には、楽器・歌・食べ物・考え方などの新しいものが作り出される。

シルクロードは私たちに一つの教訓を与える。人間の精神を元気づける方法として異なる人々や文化を結びつけることの重要性である。「現在、ますます。」マ氏は言う。「私たちは他の民族の考えや習慣、生き方を知らずにはいられなくなっている。」マ氏はシルクロード・アンサンブルを結成することによってこの教訓を生き返らせたが、そのアンサンブルではシルクロード沿いから来たアーティストが一緒になっている。そのアンサンブルはそれぞれに異なる音楽の言語や文化の橋渡しをするためにヨーロッパやアジアのさまざまな楽器を使う。「私たちの目標は革新と伝統を共存させることです。」/


2008年6月28日 (土)

EXCEED READING lesson4

エクシードリーディング lesson4

Youth in Oishi Yoshino’s Camera

1966年、そのとき写真術を学ぶ大学学生だったのだが、私はベトナムを訪れて戦争とは実際にはどのようなものなのかを目にした。それ以来、私はベトナム、カンボジア、アフガニスタンのような場所で写真を撮ってきたが、そこでは人々が戦争の影響に苦しんでいた。私はまたアフリカや中央アジアのいくつかの国々を訪れた。私はカメラを通して多くの人々を見つめ、彼らにインタビューをした。ここに私がであった子供や若者たちの写真が数枚ある。

この写真はベトナム戦争が終わってから約12年後、ベトナムに戻ったときに撮った。戦争中は多くの人々が苦しんだが、今ではこの国は復興してきている。これは1987年にハノイで撮ったスナップ写真である。

アフガニスタンでは、子供たちの70パーセント以上が学校に通っていない。多くの子供たちが父親か母親、あるいは両親を亡くしているので、生きるために働く。オミッドくんはそうした子供たちのなかの一人である。彼は戦争で父親を亡くした。

初めて彼に会ったとき、彼は私にパチンコを見せてくれた。彼は10歳だったが、ずっと年上に見えた。彼はこの写真が撮られたとき学校に通っていなかった。「お父さんが戦争で死んだから、僕が働かなくてはならないんだ。」彼は言った。

まもなく母親が彼と弟を学校に通わせた。数週間後、私は学校で彼を訪ねた。彼と弟は友達と一緒に勉強していた。二人とも髪を切ってとても短くしていた。彼らは学校で勉強してうれしそうだった。

私には写真を撮った人々と話しかけたり話を聞いたりする機会が多くあった。私は彼らをもっとよく知り、私が彼らについて理解していることを確かめ、彼らと辛さと幸せを分かち合いたかった。

この写真の男の子はガーナのパパニーくんである。非常勤でアフリカやアジアから来た人々に日本語を教えているとき、彼と東京のガーナ大使館で初めて会った。そのときパパニー君は4歳だった。彼の父親は大使館で働いていた。彼の目の色に強い印象を受けた。その色は多くのアフリカ人が経験した悲しみを映しているように見えた。

その後、彼の家族はガーナに帰っていき、そして6年後ガーナを訪れたとき、彼と会った。その2年後、私は彼とロンドンでまた会った。彼の目にはまだ悲しみがあった。彼がその悲しみから逃れられるのはいつなのだろうかと思った。

私は戦争と貧困の残酷な結果を見てきた。これらの残酷な行為は、大きいものも小さいものも終わらせるべきである。そうすれば人々の意志によって平和が築かれる。若者の微笑みや生活ぶりにせめて少しでも平和への希望を見つけたいと思う。

15歳のベトナムの少女のハさんは、午前中は学校で勉強し、午後は母親の手伝いをする。彼女の母親は露店でパンを売る。

こうした陽気な少女たちに将来何になりたいか聞くと、答えは建築家や弁護士、数学者だった。

この写真は中央アジアのキルギスで撮ったものである。タミルくんは乗馬が得意な12歳の男の子である。夏、彼は山に入り、500頭の羊の世話をしながら一人でゲルに住む。彼の生活は大変だが悪くない。彼は穏やかに落ち着いて暮らしている。/

Check it out

大石芳野さんは戦争の影響に苦しんできた人々の写真を撮る写真家である。彼女はまたアフリカや中央アジアの人々の写真も撮る。彼女は人々の写真を撮るだけでなく、彼らにインタビューもする。彼女は彼らをもっとよく知り自分の理解を確かめ苦楽を共にしたいから、彼らに話しかけ話を聞く。彼女は戦争と貧困の残酷な影響を見てきたから、こうした残酷な行為は終わらせるべきだと信じている。彼女はいつかこうした人々に平和が来ることを願っている。

Reading

plus4

1.お客様へ。去年の寄付金20万ポンドは大聖堂の通常の修理に使わせていただきました。ありがとうございました。

・この標識は何を表していますか?

・この掲示板は寄付された金額を示しています。寄付金は教会の修理にあてられました。

2.障害を持つ方専用。障害を持つ方に発行される識別表を提示していない無許可の車両には召喚状が発行され最低25ドルの罰金が科せられます。法令3913

・警察は車の持ち主が障害を持っているかどうかどうして分かったのですか?

・専用駐車場の使用者は障害を持つドライバーに発行される識別表を窓につるしておかなければなりません。

3.ポイ捨て罰金1000$

・おい、君。ごみを拾いなさい。

・かまうものか。あんたに関係ない。

・関係ある。私は警察だ。君は罰金を払わなくてはならない。

4.立ち読みをしたあとは元の場所に戻してください。

・ここに一日いてもいいですか?

・もちろん。本当に買いたい本が見つかるまでご自由にどうぞ。


2008年6月27日 (金)

EXCEED READING lesson3

エクシードリーディング lesson3

Danny and Lucy

ダニーは北アイルランドのベルファストにある高校の最上級生だった。彼の夢はプロのサッカー選手になることだった。実際、彼は高校の最上級生にしては非常にすぐれた選手だった。それでも彼は一生懸命練習しなければいいプロの選手になれないと知っていた。

ある日、ダニーはテレビで、ベルファスト・ユナイテッドのコーチと話している新しいスター選手を見た。その選手が言った。「ダンスが僕たちを特別なものにする。ブラジルではダンスは生活習慣なんだ。サッカーをしているとき、僕たちはボールと走るんじゃない。ボールと踊るんだ。」その夜、ダニーはダンスのレッスンを受ける決心をした。

数週間ダンスの練習をしたあと、ダニーは一人の女の子─ルーシーを見かけた。彼女も高校の最上級生だった。ルーシーはサンバのダンスコンテストに出場したいと思っていたが、彼女のダンスパートナーがけがをした。ダニーはたちまちいいサンバダンサーになり、ダンスの先生がルーシーに、ダニーをパートナーにすべきだと話した。

初めての練習のあと、ダンスの教師がダニーとルーシーに言った。「あなたたちはダンスは分かっている。でも気持ちが入ってない。お互いがまるで恋人であるかのように踊りなさい。」

最初、ルーシーはダニーに冷たいように見えた。しかしダニーの度胸を見たあと、彼女は彼を好きになり始めた。彼らは共通するものがたくさんあった。彼女はダニーと同様、サンバを踊ることとサッカーが好きだった。実際、ルーシーの父はベルファスト・サッカースタジアムを運営していた。それが彼らのロマンスの始まりで、ダニーの将来は明るく見えた。

ダニーは優れたサンバのダンサーであり、またいいサッカー選手でもあった。ダンスの練習のおかげで彼は見事なゴールを決めることができた。ある日、ベルファスト・ユナイテッドチームのスカウトが、ダニーがサッカーの試合でプレーをするのを見に来た。彼はダニーのサッカーの技術に強い印象を受けていた。そこで彼は言った。「君に練習試合で私たちとプレーするチャンスをあげよう。」

ダニーはそれを聞いてとても喜んだ。彼はその練習試合で最善を尽くしたが、うまくプレーできなかった。スカウトはダニーに話しかけもしなかった。ダニーはプロのサッカー選手になる夢が潰えたと思った。

その夜、大きなダンスコンテストがあった。ダニーはかろうじて時間内にダンスホールに着いた。コンテストが始まった。最初の数分はダニーとルーシーは上手に踊ったが、急にうまくいかなくなった。ダニーのステップが乱れた。彼は集中できなかったのである。彼らはダンスを終えることすらできなかった。

「全部あなたのせいよ!あなたの顔なんかもう二度と見たくない。」ルーシーは泣き叫んだ。

数ヶ月がすぎた。ダニーとルーシーの高校生活もほとんど終わっていた。ルーシーは退屈なベルファストを去ってイングランドの大学に進みたいと思った。ルーシーの父はダニーにベルファストの管理人の仕事を与えた。彼は「絶対あきらめるなよ、ダニー。チャンスは来る。」

数週間後、ルーシーの父は問題を抱えていた。サッカーのハーフタイムのショーがキャンセルさせていた。「ダニー、困ったことになった。ショーもないのに試合のチケットは売り切れだ。観客はとてもがっかりするだろう。」

ダニーはこの問題のことを聞いて、あるアイデアが浮かんだ。「マクローレンさん。ショーが必要なんですね?僕がルーシーと踊ります。ロンドンへ発つ前に彼女への大きなプレゼントになりますよ。

「彼女を連れてこよう。」

試合当日の夜、ルーシーと父はスタンドに座っていた。ダニーはルーシーに近寄り、前に出てきて自分と踊って欲しいと頼んだ。彼女は初めのうち抵抗した。

「嫌よ!なぜこんなことするの?」

「君が好きだから。それが理由さ。」

ハーフタイムのショーが始まりサンバの音楽が流れたとき、アナウンスがあった。「さあ皆さん、ダニーとルーシーを拍手で迎えてください!」

ダニーとルーシーは完璧にリズムに合わせて踊った。サッカーのファンは立ち上がり、二人のダンサーを見ながら拍手した。ダニーとルーシーが踊り終えたとき、観客は大きな歓声と共に彼らを見送った。

ルーシーはその夜、結局ベルファストに残ることに決めた。/

Check it out

・ダニーはダンスを習うことに決めた

・ダニーはルーシーと出会い、彼らはダンスパートナーになった。

・ダニーはサンバを踊ることもルーシーも好きになった。

・サンバの踊りのおかげでダニーはサッカーの技術を向上させた。

・ダニーは練習試合でいいプレーができなかった。

・ダニーとルーシーはダンスコンテストでうまく踊れなかった。

・ダニーはルーシーの父にベルファストスタジアムでの仕事を与えられた。

・ダニーはハーフタイムショーでルーシーと踊りたいと言った。

・サッカーのファンはダニーとルーシーの踊りを楽しんだ。


2008年6月22日 (日)

EXCEED READING lesson2

エクシードリーディング lesson2

Grow Strong, Pinatubo Rainforest!

私が参加したクラブはインターアクト・クラブと呼ばれます。そのクラブで、私たちは他の国々の人たちを進んで援助します。ある計画で、私たちはピナトゥボの森林を再生させるため日本の植物の葛を植えました。葛は好ましくない状況でもあっという間に成長します。そこに他の木々も植えました。この2年間、私は森林再生の仕事に参加してきました。

フィリピンでピナトゥボ火山が爆発してから10年が経ちました。ピナトゥボ火山の周辺の熱帯雨林はまだ回復していません。手作業で森を再び植えるのはとても長い時間がかかります。私たちはアエタの人たちが住んでいるピナトゥボ火山の近くの村で植林しました。私たちはこの地域ができるだけ早急に草の生い茂った状態に戻ることを願いました。

去年、私たちはマンゴーやその他の熱帯の木の苗を植え、今年はマホガニーを植える予定です。苗は村の子供たちと一緒に1つずつ植えました。暑い天気の中、火山灰でいっぱいの地域で苗を植えるのは簡単なことではありませんでした。

植林を終えたあとも苗に水をやらなければなりませんでした。けれども村の近くを流れる小川以外に水を手に入れる場所がありませんでした。毎日使う水はすべてその小川から運んできます。しかしそれでは足りません。村の人たちはより豊富な水の供給を必要としているのです。

そこで私たちは彼らが井戸を掘るのも手伝いました。井戸を掘るためには長いパイプを地面に打ち込まなくてはなりません。私たちはパイプが地下水脈に届くようにと願いました。

123。」私たちは声を1つに合わせて繰り返し叫びました。私たちはみんな地面から水が流れると信じて、何度も何度も動作を繰り返しました。

鉄パイプを地面に8メートル打ち込んだとき、やっと水が出てくるのが見えました。私たちは互いに手を取り合い、歓声を上げました。私たちは150人の村人たちの水を手に入れるのを手伝ってきました。この水は木を育てるのにも使うことができました。葛はこの地域ですぐに育ちました。それを見て私は計画の重要性を改めて実感しました。時を経て、村人とボランティアに植えられた葛やマホガニーは火山灰に覆われた地域に根付き育っていました。

村の近くに、噴火を生き延びた巨大なマンゴーの木があります。樹齢は100年を超えています。それは子供たちにとって素敵な“遊び場”でいつも喜びの顔であふれています。その木は毎年1,200キロのマンゴーを実らせ、村の人たちがお金を稼ぐとても重要な手段です。

村長さんが、別れの言葉の中でこう言いました。「私たちは一緒に木を植えました。たとえ離れ離れになっても、木々が育つ限り私たちの心はいつまでも結ばれていることでしょう。」

この3年の計画の間に私たちは村の人たちと、とても仲良くなれたように思います。私たちはお互いを信じあったから、そして計画の中心は私たちではなくこの地域に住む人たちだったから、この計画は成功でした。

私の一番の願いは私たちが今年植えたマホガニーがあの巨大なマンゴーの木と同じくらい大きく育ち、今後100年のあいだ人々のためになることです。/


2008年6月20日 (金)

EXCEED READING lesson1

エクシードR lesson1

Vanishing Voices  ─消えゆく声─

私たちはみな、外国語を学ぶ必要があるということに意見が一致している。私たちの多くは世界に約7,000ある言語の中から英語を選ぶ。なぜだろう1つには英語は世界中に話し手がいるからである。これは英語を学ぶもっともな理由である。しかしながらどの言語も英語ほど多くの話し手がいるというわけではない。話し手がごくわずかしかいない言語についても考えるべきである。

最近の調査によれば、52の言語はネイティブの話し手が一人しか残っていない。他の約430の言語がもう少しで消滅しそうになってきていて、数人の年配の話し手がまだ生きているだけである。これらの言語はまさに消滅しようとしているので‘消えゆく声’と呼ばれる。今世紀末までに世界に7,000ある言語の半数が消滅するだろうと私たちに語る専門家もいる。これらの7,000の言語の80から90パーセントが今後200年のうちに消滅するだろう。

アメリカのネイティブ言語であるイーヤク語もそうした消滅しつつある言語の一つである。この言語にはたった1人のネイティブの話し手、81歳のマリー・スミス・ジョーンズしかいない。彼女の姉のソフィア1993年に死んだので、マリーは‘カエルターク’が‘アザラシ’を意味するということを知っている最後のイーヤク語のネイティブの話し手である。彼女はイーヤク語で彼女に話しかける言語学者のマイケル・クラウスから時たま電話をもらう。しばしば彼女はイーヤク語を思い出し、ときどきそれらを声に出して言う。「私はそれらがどのように聞こえるのか知りたい。」彼女は言う。

ジョーンズ氏が死んだらイーヤク語のネイティブの話し手はいなくなるだろう。これはイーヤク文化の一部もまた失われることを意味する。そうしたら人間の文化という宝物の一部が失われることにはならないだろうか?これはまさに動植物の種の死とともに自然の一部が失われるのに似ている。文化はひとたびこの世から消滅すると、永遠に消えてしまう。

もう一つのアメリカのネイティブの言語であるマイアミ語は1960年代に消滅した。しかし37歳のデレル・ボールドウィンがマイアミ語を生き返らせた。彼はマイアミ語の単語や文法、音声を独学で勉強した。その後、彼は家でマイアミ語を使い始めた。今では彼と友人は子供たちにマイアミ語を教えている。

この種の努力は、人々が世界中の他の多くの言語を復活させるときに見られる。他の例がニュージーランドに住むポリネシア人の言語であるマオリ語である。マオリ語はイーヤク語やマイアミ語ほど悪い状態ではないが、守る努力を何もしなかったら英語に取って代わられるだろう。現在、マリオ語を再び活気あるものにするため、マオリ人の子供は“コハンガ・レオ”すなわち“言語の巣”でマオリ語を学んでいる。ニュージーランドにはマオリ語の新聞やラジオ番組もある。似た努力が日本のアイヌ語にも見られる。/