2008年11月 9日 (日)

POLESTAR READING lesson10

ポールスターリーディング lesson10
Tourists of a Different Kind


ネパールのガンドルンの人々はこの名もなき若者の写真を見るのが好きである。写真にはバックパックを背負い、微笑んでいるひげづらの青年が写っている。村人は、彼は今まで村に来た最高の旅行者だと考える。
ネパールの村人は「最高」という言葉によってどんなことを言っているのだろうか?村人の一人が説明する。「彼は自分の食べ物のほとんどを持参した。彼は人々が村近くの小道を修理するのを助けた。彼は燃料用の木を使いすぎないよう気をつけた。彼はシャワーを浴びるのにお湯を求めることもなかった。」ガンドルンの人々に関する限り、彼は理想的な旅行者だった。

以前は、観光旅行は地域社会にマイナスの影響を与えていた。旅行者はビーチを楽しみ名所を見物したものだったが、旅行者は地域社会の人々とは触れ合うことはなかった。地元の人々は旅行者をただの金づるとしてしか見なかった。実際、この2つのグループはお土産や食べ物を売買するとき以外はほとんど触れ合わなかった。現地の人々は自分たちに敬意を示さない旅行者に敬意を示すことはなかった。
旅行者は価値観や伝統を変化させる。若者は旅行者の流行のスポーツシューズや派手なTシャツや今はやりのバックパックを見た。彼らは“裕福な”旅行者について間違った考えを持ち、もう伝統的な生き方をしたがらなかった。旅行者がお土産や楽しい思い出と共に家に帰ったあと、地元の人々は問題や部分的に破壊された自然環境と共に残された。

1960年代以降、人々は平和や文化的多様性、人権、自然環境のような地球規模の問題により関心を持つようになってきた。旅行者でさえ訪れた場所の人々や環境について考え始めてきた。多くの関心を持った人々が世界中の環境問題や他の民族についてより多くを学ぶために組織に参加してきた。これらの同じ人々が教育的親善ツアーを組織してきた。これらの努力によって彼らは違った種類の観光旅行をもたらした。
たとえば、ルーラ・シャーウッドがケニアで2ヶ月滞在したあと英国のマンチェスターに戻ったとき、彼女は家族に伝統的なケニア料理を用意した。ルーラは家にお土産をほとんど持ち帰らなかったが、彼女の訪れた場所の話を持ち帰った。ケニアの広い草原のゾウやライオンの話を聞いて家族や友人はケニアを生き生きと感じた。ルーラが彼らに絶滅しかけているゾウの群れについて話したとき、急に「絶滅危惧種」という言葉がより大きな意味を持った。ルーラとその家族にとって「旅行者」という言葉が新しい意味を帯びたのである。
ルーラのような旅行をした旅行者は、自分たちが探検した地域社会や自然環境に対してより敬意を示す。彼らは博物館に行ったり地元の手工芸品を買ったりしない。そのかわり、たとえば動物や植物や自然環境についてより多くを学ぶ「ネイチャー・ツアー」に出かけるかもしれない。何も壊さないよう、あるいは「お土産」を取らないよう注意することによって、彼らは自然をより尊重するようになる。

1980年代までに、責任ある旅行者は自然環境を保護する方法を探し始めた。そうするために彼らは特別なエコ・ツアーに参加した。最初のエコ・ツアーはラテンアメリカとアフリカに行くものだった。旅行代金の一部は保護努力に寄付された。エコ・ツーリストはアマゾン川沿いに、またキリマンジャロ上方に旅行した。後に、エコ・ツーリストはブラジルやタンザニアの地域社会を助けるためグループを組織した。ある地域で、彼らは雨が山腹の土を押し流している場所で新しい小道を作るのを助けた。またある地域で、グループは急な坂を補強し、階段を作るために石を運んだ。
そのような観光旅行から家に帰ると、エコ・ツーリストは自分が学んできたことを使って家族・友人・クラスメート・同僚を感化させることができる。その関心や熱意により、彼らは他人に、深刻な環境問題に注目させる。彼らの努力のおかげで絶滅危惧種や広い面積の土地を保護するために国際法が可決されてきた。
今日では自分たち自身の旅行を計画するエコ・ツーリストもいれば、組織的なツアーグループに参加するエコ・ツーリストもいる。これらの旅行にはアンデス山脈でのハイキング・モロカイ島でのバードウォッチング・メキシコ沖のクジラ観察を含むかもしれない。

もちろん、解決策が新しい問題を生み出すこともある。たとえ注意をしていても、多すぎるエコ・ツーリストは自然環境を損なうかもしれない。なぜならそうした旅行者はしばしば同じ場所を訪れるからである。ビーチやさんご礁のような自然資源は簡単に壊れてしまうかもしれない。動物のすみかが荒らされるかもしれない。現地の文化が永遠に変わってしまうかもしれない。これらは、そのような旅行がエコ・ツーリストの「写真だけを撮り、足跡だけを残す」というモットーに従って注意深く計画される必要がある重要な理由の一部である。
エコ・ツーリストであるということは、自然環境や現地の人と触れ合いそして助けたがる「積極的」旅行者であるということを意味する。それは連れまわされる「消極的」旅行者を意味しない。君はどちらの旅行者だろうか?/


POLESTAR READING lesson9

ポールスターリーディング lesson9
Public attitudes toward Science by Stephan Hawking


好むと好まざるとに関わらず、私たちの生きるこの世界は過去100年間で大きく変わり、これからの100年間でさらに大きく変わりそうである。こうした変化を止めてより純粋で単純な時代だと考えるものに戻りたいと思う人もいるだろう。しかし歴史が示すように、過去はそう素敵なものではない。少数の特権階級にとってはよかったが(彼らだって現代医療なしでやっていかなければならず、出産は女性にとってきわめて危険だった)、人口の大部分にとって人生は不快で短いものだった。
とにかく、たとえ望んだとしても人は時計の針を昔に戻すことはできない。知識と技術は決して忘れられない。また将来のさらなる進歩を妨げることもできない。たとえ研究にあてられる政府の費用全額が打ち切られたとしても、競争の力が働いて技術はやはり進歩するだろう。そのうえ対価を得ようが得まいが、人は探究心が基礎科学について考えるのを止めることはできない。

たとえ科学技術が世界を変えるのを防ぐことはできないということを受け入れるとしても、せめて科学技術のもたらす変化が確実に正しい方向に向くようにと努めることはできる。現代社会では、これはつまり一般市民が科学の基礎的理解力を持つ必要があるということを意味する。そうすれば一般市民は十分な情報を得たうえでの決断を下せるし、そうした決断を専門家に任せきりにすることもない。
現在、一般市民は科学に対してかなり相反する態度を取っている。一般市民は科学技術における新しい発展のもたらした生活水準の安定的上昇が続くことを期待するようになっているが、一般市民はまた科学が理解できないため科学を疑ってもいる。この不信はフランケンシュタインを生み出そうと研究所で働く気の狂った科学者という漫画の登場人物からも明らかである。だがSF映画の視聴者/SF小説の読者が多くいることからも分かるように、一般市民は科学に大きな関心を持っている。

この関心を利用し、そして一般市民に酸性雨・地球温暖化・核兵器・遺伝子工学のような課題に関して十分な情報に基づく決断を下すのに必要な科学的基礎知識を与えるために何ができるだろうか?明らかに基礎は学校で教えられることの中にある。しかし学校で、科学はしばしば無味乾燥でつまらないやり方で教えられる。子供は試験を通過するために科学を機械的に覚えなければならず、科学と周囲の世界との関連性が分からない。そのうえ科学はしばしば方程式という表現をとって教えられる。方程式は数学的考えを述べる正確な方法ではあるが、たいていの人々が科学的概念を把握するには言葉と図だけで十分である。
学校で習う科学は基本的な枠組みを提供することができる。しかし科学の進歩の速度は今ではとても速いので、人が学校や大学にいたとき以来つねに新しい発展は起こっている。私は学校で分子生物学やトランジスタを習ったことは一度もないが、遺伝子工学とコンピュータは将来、私たちの生き方を変えそうな2つの発展分野である。
科学についての人気の本や雑誌は新しい発展を伝えるのに役立つが、最もよく売れている人気の本でさえ人口のごく少数しか読まない。テレビの科学番組にはとてもいいものもあるが、科学の不思議をたんに魔法らしきものとして教え、それを説明したり科学的考えにどうはめ込まれるのか明らかにしたりないものもある。テレビの科学番組の制作者は一般市民を楽しませるだけでなく教育する責任も負っていることを自覚するべきである。

近い将来、一般市民が決定を下さなければならない科学関連の問題は何か?特に差し迫っているのは核兵器の問題である。食物の供給や地球温暖化のような他の地球規模の問題は比較的ゆっくり現れるが、核戦争は数日のうちに地球上の全人類の終末を引き起こしかねない。東西の緊張の緩和は核戦争の恐怖が一般市民の意識から遠ざかったことを意味してきた。しかし地球上の全人類を何度も繰り返し殺すのに十分な兵器がある限り、危険はまだ存在する。核兵器は今もなお北半球の全主要都市を攻撃する用意ができている。コンピュータの誤作動だけでも世界戦争が引き起こされるだろう。
たとえ核戦争を何とか回避したとしても、全人類を滅ぼしかねない危険はまだある。地球人が宇宙人の文明から接触を受けてこなかったのは、文明は現在の地球の現段階に達するとそれ自体で崩壊しがちだからだという趣味の悪い冗談がある。しかし私は一般市民の良識に信頼を置いていて、この冗談が間違いだと証明されることを信じている。/


POLESTAR READING lesson8

ポールスターリーディング lesson8
Mattie Stepanek -Listen to Your “Heartsong”-


Introduction
マティ・ステパネク、1990年7月17日、メリーランドのアッパー・マールボロ生まれ。父のグレッグは整備監督。母のジェニはメリーランド大学の博士課程の学生。マティ・ステパネクは世界で最も若い詩人の一人と呼ばれる。


ジェニ・ステパネクとグレッグ・ステパネクはマティが生まれるまでに多くのことを経験した。第1子のケイティは2歳になる前に亡くなった。第2子のスティービーは手術を4回受けて生後半年で亡くなった。第3子のジャミーは生後数ヶ月、生命維持装置をつけて過ごしていたが、このときジェニは自分が第4子を授かっていることを知った。
「彼は4人の中で1番体が弱かった。」ジェニは思い出す。彼は兄や姉と同じ生命に関わる問題で苦しんだが、マティは何とか幼児期を生き延びた。彼が2歳になる頃、医師はやっと彼のどこが悪いのか知った。彼は珍しい種類の筋ジストロフィーを患っていた。

ジェニはマティがまだ赤ん坊のときに、彼に詩を読んで聞かせ始めた。ペンを持てるようになるずっと前から、彼は自分の詩を作った。彼は3歳のときに初めての詩を母に書き取らせた。「お母さん、書いて、お願い。」彼はそう言ったものだった。彼女が彼にこうした考えはどこから来るのか聞くと、彼は説明した。「天国にいる神様、ケイティ、スティービー、ジャミーが僕の胸にアイデアを入れる。アイデアは頭に、そして口に上がってくる。僕はそれを外に出すだけ。」4歳のときまでにマティは自分の言葉を書き留めていて、8歳のとき彼は詩をタイプし、見つけた詩をすべて読んでいた。
マティは小学校に通っていたが、彼が最初からクラスメートよりずっと先んじていたことは明らかだった。彼が1年生のときの先生は、クラスメートのほとんどがcatやdogのスペルを習っているとき、マティがebullientのような言葉を使っていたのを覚えている。11歳までには、彼は高校レベルのことを学んでいて、コミュニティ・カレッジの講座さえ取っていた。

2001年春、マティの健康に危機があり、数ヶ月入院した。彼は長いあいだ昏睡し、医師は彼が昏睡から抜け出すかどうかはっきりとは分からなかった。けれども結局彼は目を覚ました。天国から放り出されると動揺するよ。天国はとても素敵な場所で一度そこに行ったら離れたくなくなるから。」彼は後に母に話した。
病院の広報部の女性が、もし回復して3つ願いがかなうとしたら何がいいか彼に聞いた。元大統領のジミー・カーターと世界平和について話したい、自分の詩が出版されるのが見たい、テレビで世界に平和を訴えたい、彼はそう言った。ジミー・カーターは病室にいるマティに電話をかけ、どうしたら平和がかなえられるかについて15分話した。その後、病院の誰かが児童図書の小さな出版社であるVSPに連絡を取った。出版社の代表者は彼の詩を読み、マティが「かわいらしい詩を書く幼い子供ではない。私たちが読んでいるものが信じられなかった」ことにすぐ気付いた。
マティの詩の1つはこのようなものである。

心の奥に歌があって

僕だけ聞くことができる

目を閉じてじっとしていれば

この歌をきくのは簡単だ

・・・

心のなかに人はみな

特別な歌を持っている

世界の誰もが特別な

心の歌を持っている

魔法のような音のする

心の存在を信じれば

自分の幸せを信じれば

ほら、君にも聞こえる君の歌

一刻の猶予もないと知り、VSPはマティの本、『Heartsongs』と呼ばれるペーパーバックを出版した。記者会見とテレビのインタビューのあと、注文が殺到し始めた。Heartsongというのは彼がほんの4歳のときに創作した言葉である。「シー!」彼は小さいとき母に言った。「聞いて!僕のハートソングだよ!」後に彼は記者に説明していた。「皆さんのハートソングは皆さんの内面の美しさ。これがあれば皆さんはいい人になれますし、他の皆さんもいい人になれます。」

それからVSPはマティの2冊目の『Journey through Heartsongs』を出版したが、それは3万部以上売れた。新刊は、筋ジストロフィーと共に生きるということがどのようなものなのかをつづった『Future Echo』という詩を含む、新しい詩を載せていた。

ブランコをこぐと

どこにでも行ける

でもやはり

どこにも行けない

まだ発せられることはない、

だから返ってくることもない、

そんなこだまの中にいる

過去と未来を揺れ動いても

僕はやはり今ここにいる

これは明らかに典型的な子供の詩ではないし、マティが病気や死をよく知っていること、それに彼独自の生命観を映し出している。たいていの若い作家と違って、自分の人生を今どうするかということが、彼の死後の起こることや彼の記憶のされ方に影響するだろうということを彼は理解している。おそらくこういう訳で、彼の詩は子供より大人の心に率直に訴えかけるのである。
2002年の1月までに、『Heartsongs』はペパーバック部門の第3位、『Journey through Heartsongs』は『Harry Potter』さえ抜いて第1位となった。出版されたマティの2冊の本は今のところ50万部以上に上る。これにより彼の最後の願いがかなった。彼はテレビのオプラ・ウィンフリー・ショーに出演したのであるが、そこで視聴者は彼にスタンディング・オベーションを送った。

マティの詩はアメリカの9.11テロ攻撃のすぐ後に続いて特に期に適っているように思える。「ニューヨークで起こったような悪いこと、家族や親友を失うような悲しいこと、これらはライフ・ストームなのです。」彼は説明する。「ライフ・ストームが通過したあと、ただ嘆き悲しむのではなく、また次のライフ・ストームが来て吹き飛ばされるのを待つのではなく、一緒になって1つ目のライフ・ストームを切り抜けたことを祝うべきです。」彼は付け加える。「暗澹たる今を生きているなら、本当に生きているとは言えない。」これはマティが彼自身のライフ・ストームを切り抜けるために用いた哲学である。
マティは2004年6月22日、病気の合併症のため亡くなった。彼は13歳で母のジェニより先に亡くなった。彼はもちろん詩によって記憶されるだろうが、また彼が感動させた人みんなを鼓舞した不屈の精神によっても記憶されるだろう。マティ・ステパネクは私たちに自分のハートソングに耳を傾けることを教えてくれた。/


2008年7月 5日 (土)

POLESTAR READING lesson7

ポールスターリーディング lesson7

Sex and the Brain

私たちは男性の脳は平均して女性の脳より少し重いということ知っている。けれども全体重に比例した脳の重さは男性も女性もだいたい同じである。私たちはまた男性の方が女性より知能に差があることも知っている。これはとても高いIQを持っている男性が女性より多く、とてもIQの低い男性が女性よりより多くいることを意味する。

なぜか?誰も確かなことは分からないが、男性の場合、両側の脳が女性のものより特殊化されているという事実と何か関係があるかもしれない。女子はより発達した大脳皮質と大きな脳梁を備えて生まれる。女子の場合、右脳と左脳がお互いより密接に連結している。後年、女性はいくつかの異なった方法を用いて問題を解く傾向があるのに対し、男性はより1つの物事に専念するようである。

シカゴ大学のある脳の専門家は、女性のより強固な脳梁の連結は“女性の直感”を明らかにするかもしれないと考える。それはまた女性の数学や機械の働く仕組みにおけるより低い能力もまた明らかにするかもしれない。

その脳の構造により男性はカラーブロックで物を作ったり物を組み立てたりするような空間的作業が上手なのだと考える科学者もいる。ジョーンズ・ホプキンス大学のある心理学者はこのことが男性が女性より数学でしばしば高い能力を示す理由なのかもしれないと説明する。けれども空間的能力に優れた女性もいれば空間的能力に乏しい男性もいる。それにまた数学や機械の技術に優れた女性もいる。だからこれらの違いは女子と男子11人の行動の仕方を述べたものではないことを覚えていて欲しい。

研究は、男性の方が女性より高度に発達した運動技能を持ち、また、たとえばジグソーパズルのような物の配置を含む問題の解決が上手であることを示唆する。男子の方が女子より物の働く仕組みに興味を持ちそうである。彼らはまたより好奇心を見せる。男子はしばしば女子より衝動的で簡単に気を散らす。彼らはより危険を冒し、より攻撃的である。

女性はより高度に発達した言語技能を持っているように思える。彼らは男性より、書道のような作業に必要とされる細かい手の動きを制御することが上手である。女性はより気が散りにくく、一般的に男性より情報を速く処理する。男子よりはむしろ女子の方がより人々や社会的関係に興味を持つ傾向がある。彼らは名前や顔を覚えるのがより楽である。多くの女子はより強い嗅覚や味覚、触覚を持っている。

さてここで100万ドルの問題。これらの違いのうち、どれが生理学的なものでどれが環境の影響に起因するものだろうか?

天性対養育という古臭い問題に戻る。どの1つの技術の分野でも男女の違いのごくわずかな部分だけが脳の解剖学的構造に起因すると科学者は強調する。違いのほとんどは人が受ける励ましや人が受ける教育の量と種類などといった環境によるというのである。次の質問を自分にして欲しい。

君はある技術を習得できると信じているだろうか?

周囲の人々は君がそれを習得できると信じているだろうか?

君は役立つ教師からそれを学ぶ機会を得ているだろうか?

もしこれら3つの質問のすべての答えが「はい」であるなら、君がその技術を習得する可能性はとても高い。たとえ君の脳が君にとって不利であるとしても、である!

調査により、しばしば多くの女子が受動的で思いやりを持つよう教えられ、一方多くの男子が攻撃的で危険をかえりみないよう教えられることが分かっている。たびたび自覚することなく、親は、子供に買い与える服の型・子供に与えるおもちゃの種類・子供に参加することを許す活動の性質によってこれらの傾向を推し進める。

現在、男子と女子が親によって最初から同じように扱われれば男女間の違いの多くはなくなるだろうと考える人々は多い。このように、社会の期待や文化的価値が、私たちが周囲の人々からどう学ぶか、何を学ぶかということに影響することがある。/


2008年7月 4日 (金)

POLESTAR READING lesson6

ポールスターリーディング lesson6

Just Out of Curiosity

もしかしたら頑固なリポーターとしての性分なのかもしれないし、あるいは根っからの空想家なのかもしれない。いずれにせよ、気付くと私は自分が読むどの新聞でも「尋ね人」欄(注:ここでは交際相手を募集する個人広告)のページをめくっている。私は19年間幸せに結婚生活を送っており、新しい夫を探すはずもない。それでも私がこうした個人広告につい引き寄せられてしまうのは、それらの中に日々の希望や夢が具現化されているからだ。

1991年のある日、地方紙の「尋ね人」欄を見ていて、私の目がとある広告でぱったり止まった。「これまた変わってるわね!」私は思った。「本気かしら?」私の目にとまったその広告にはこう書いてあった。

ヘンリエッタ、私たちが1938年にキャンプ・タミメントで出会い、デートしたことを覚えていますか?君の事を忘れたことはありません。お電話ください。アービング。

xxx-xxxx

普通の広告のIDナンバーではなく電話番号が載っていた。「何かの冗談かしら。」私はいろいろ考えた。

一晩中アービングの要望について考えた。個人広告にはかなりお金がかかるということは記憶していた。誰もそんな大金を冗談につぎ込むわけがない。というか冗談の要素が見当たらない。ついに翌朝、私は答えを知らなくてはならないと決断した。勇気を奮い起こして例の広告の番号に電話した。

熟年男性の声が返ってきた。アービングだった。彼の声を聞いて冗談でも何でもないことを知った。この時にはもう電話しようと決断したことをほとんど後悔していた。この電話で彼が期待に胸を膨らませないことを願った。「あの、私はヘンリエッタではありません。」私は言った。「お気に触らなければよろしいのですが、あなたの広告に興味をそそられまして。一体どんなお話なのかどうしても知りたいと思いました。」

アービングは1938年に始まる話を説明し始めた。「あの夏のあいだ、私とヘンリエッタはペンシルバニアのキャンプ・タミメントで指導員をしていました。そこで私たちは恋に落ちました。お互い自分にぴったりの相手だと確信しました。

しかしヘンリエッタの両親が反対しました。彼女は当時まだ17歳、真剣に交際するにはまだ若すぎると考えたのです。その年の秋、両親は彼女を私から遠ざけようとヨーロッパのおばの家に行かせました。そのままヨーロッパに数年いたでしょうか。パリにいるときに彼女は後に夫となる男性と出会いました。私は打ちひしがれ、結局ほかの女性と結婚しました。妻のことは愛していましたが、ヘンリエッタを忘れたことはありませんでした。私は3年前に妻に先立たれてからずっと孤独でした。最近になってヘンリエッタのことをますます想うようになりました。まだ元気だろうか、まだ家庭を持っているだろうか、私たちはまたやり直せないだろうかとかいろいろ考えました。私は馬鹿な男なのかもしれませんが、新聞に載せた広告をヘンリエッタがなんとか見てくれないだろうかと一縷の望みをかけていたのです。」

アービングの話は胸を打つものだった。彼のヘンリエッタへの変わらぬ想いに驚かされた。ジャーナリストとしての性分から彼にその話を書き直して掲載してもいいか聞いてみることにした。アービングは快諾した。残念ながら編集長がこのアイデアを全然気に入ってくれなかった。けれども私はアービングの人捜しがどんな結末を迎えるか知りたかったし電話越しの彼に好意を持ち始めていたから、彼の電話番号を取っておいて時々電話した。この話がどう進展していくのか見ていたかった。不幸にも彼は自分が望んでいた電話を受けることはなかった。

アービングに初めて電話をしてから2年後、私はニューヨークの地下鉄に乗りながらまた「尋ね人」欄を見ていた。誰かがそばでくすくす笑うのが聞こえた。「新しい旦那さんをお探し?」隣に座っていた婦人が微笑んで私の結婚指輪を指差した。

「あら。」私は少しきまり悪くて赤くなった。「ただ面白半分に読んでいただけです。あの、たんなる好奇心ですよ。あなたは個人広告を読みたくなったことはないのですか?」

「いいえ、私は。」彼女が首を振って答えた。「こういうページは哀愁が多すぎるのよ。見てると胸が痛くなるの。この手の広告は。」彼女は私に温かい笑顔を向けた。「でも同じものでも人によって見方はさまざま。これって面白くありません?」

彼女に興味が湧いてきた。「ある点、その通りでしょうね。」私は同意した。「こういうページは哀愁がいっぱい。」私はアービングとヘンリエッタの話を聞かせ始めた。彼女はすっかりこの恋話に夢中になった。「まあ…」私は締めくくった。「アービングはヘンリエッタを見つけてその後ずっと幸せに暮らしましたとさ、なんて言えればいいんですけど。ハッピーエンドはないんです。ヘンリエッタはもうこの世にいないか、別の街で暮らしているか、それとも単に広告を見なかっただけなのか。」

3番目よ。」婦人が私の肩をやさしくたたきながら言った。「本当よ。私、知ってるの。ねえ、あなた教えてくれないかしら。彼の電話番号はまだお持ち?」彼女が目を輝かせながら聞いてきた。/


2008年7月 3日 (木)

POLESTAR READING lesson5

ポールスターリーディング lesson5

Be a Good Sport!

ベッカのバスケットチームが全国大会で負けたとき、彼女はがっかりした。しかし彼女はチームメイトの数人の反応に対する心の用意をしていなかった。「公平じゃなかった。」1人が言った。「審判は相手チームに味方した。」

「それにセンターのプレー見た?彼女はひどい。彼女たちは決して勝つべきではなかった。」もう1人が付け加えた。彼女はベッカのほうを向いて聞いた。「試合のことどう思う?」

簡単ではなかったが、ベッカは深呼吸して正直に答えた。「相手は本当によかったと思う。」彼女は認めた。「私たちが負けたのは残念だけど、でもベストを尽くした。今日は私たちより向こうの方がうまくプレーしただけ。」

ベッカの返事は、彼女がこのチームでプレーしてきたこの数年で運動技能以上のものを学んだことを示した。彼女はまた立派なスポーツマンシップとはどういうものなのかも学んでいた。

立派なスポーツマンシップをスポーツの“大切な原則”、すなわち共にプレーしたり相手をしたりしている人々を自分が扱って欲しいように扱うことだと定義する人々もいる。コーチや審判だけではなく、自分やチームメイト、対戦相手に敬意を払ったときに、立派なスポーツマンシップは示される。立派なスポーツマンシップは成熟と勇気を必要とする。スポーツに懸命に励んでいるとき、まずいプレーをしてしまったり、他の誰かが自分よりもっと技術を持っていたりすることを認めるのは簡単ではない。

立派なスポーツマンシップを学んだティーンズは普通、スポーツを通じて身に付けた前向きな姿勢が自分の人生の他の分野にまで引き継がれることに気付く。たとえば学校ではクラスメートの発言を尊重することができる。取引先や同僚を含め他者を尊重するから、立派なスポーツマンは仕事でもより成功するかもしれない。

勝ったときも負けたときと同じくらい立派なスポーツマンでいることは難しい。君は勝つことを重視しすぎる競技者を見たことがあるだろう。彼らは時々、長くてこれ見よがしな勝利のダンスでゴールを祝ったり、競技の相手をあざけりながら絶えず自分たちの能力を自慢したりする。しばらくすると、彼らがいかに偉大かについて聞くのに飽きるだろう。

他方、立派なスポーツマンは礼儀正しい勝者である。彼らは競技の相手をけなすことなく自らの勝利を認めることができる。彼らは勝利におのずから物語らせ、静かに自分の成功を誇りに思う。たとえ圧倒的な勝利であっても、彼らはなお相手をほめる方法を見つける。

負けということとなると、立派なスポーツマンは勝者を喜んで祝う。彼らはたとえ審判の判定に満足していなくても不平や言い訳を言うことなく試合の結果を受け入れる。人生と同じくスポーツではいつも勝つとは限らないかもしれないが、負けからも何かを学ぶことができることを彼らは理解する。

最高のプロスポーツ選手は “何が何でも勝つ”的な態度を持つことはめったにない。君は彼らがどれほどそのスポーツを愛しているか、そのスポーツからどれほど個人的満足と楽しみを得ているかについて話すのをより聞きそうである。

たいていのティーンズはプロのスポーツ選手になろうとはしない。けれども多くのティーンズはスポーツをして楽しい時を過ごすということを忘れてしまう。スポーツがもっぱら勝つことにのみ焦点を当てられているためである。残念なことに親やコーチは時に何としてでも勝つということを強調してティーンズにプレッシャーをかけすぎることがある。

チャンピオンになることは素晴らしいことだが、トップに上り詰めようとするその過程を楽しむ方がずっといい。立派なスポーツマンはどうやって楽しむか、負けているときでさえどうやって敬意を示すかを知っている。

セリーナ・ウィリアムズ:今日は私の日じゃなかった。マリア、あなたはとてもいい試合をした。初めてのグランドスラムおめでとう。

マリア・シャラポア:1年間このトロフィー借りるけどごめんなさい。きっとまたここで会うと思うしトロフィーをかけていろんなトーナメントで何回もあたれればいいね。いい試合をさせてくれてありがとう。/


2008年7月 2日 (水)

POLESTAR READING lesson4

ポールスターリーディング lesson4

Bob Marley

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現在、音楽の最も人気で独特な音楽の様式の1つがレゲエである。レゲエは1960年代にジャマイカで始まり、ソウルやR&Bや伝統的ジャマイカ音楽のスカが入り混じったものである。レゲエはヘジテーションビートとリード楽器のベースに特徴がある。この音楽の様式で最も人気で重要な人物がボブ・マーリーで、彼は“レゲエの王様”として知られている。

32

多くのレゲエ歌手のように、マーリーはジャマイカの貧しい家庭に生まれた。彼は僕力と貧困の厳しい環境に育ったが、唯一の夢は人気歌手になることだった。彼は夢をかなえるため一生懸命音楽に取り組んだ。マーリーにはこの音楽と音楽が伝えるメッセージが大衆の支持を得るという確信があった。彼はかつて言った。「この音楽はこれからどんどん大きくなって必要とする人々に届くだろう。…今どんどん大きくなっているように。」そしてそれは大きくなった。

ボブ・マーリーにとって音楽は人々にメッセージを伝える手段だった。彼はかつて言った。「人々はメッセージ、つまり神の言葉を聞きたがっている。これは私かあるいはだれにでも通り抜けるかもしれない。私はリーダーではなくメッセンジャーだ。」言葉と音楽を通じて彼は人々に心を開き、自分の人生の責任を負い、いかなる種類のものであれ現在の境遇や弾圧を受け入れないよう励ました。

33

ボブ・マーリーの音楽はジャマイカのレゲエ音楽家だけでなく、世界中の人気音楽家にも大きな影響を与えた。ロックスターのエリック・クラプトンはマーリーの“アイ・ショット・ザ・シェリフ”をカバーして大ヒットさせた。ポリスといった多くの人気バンドもまた歌にレゲエのリズムを使い始めた。これによりレゲエの人気はさらに高まった。

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70年代のボブ・マーリーの人気はジャマイカでは誰より高く、彼の影響力は政治的指導者にも注目された。当時、政権をめぐって争うジャマイカ労働党と人民国家党という2つの政党があった。ある日、マーリーは両者の仲を取り持つコンサートをするよう頼まれた。“One Love Peace Concert”と呼ばれたそのコンサートは1978422日に行われた。コンサート中、マーリーはマイケル・マンリー首相と野党のエドワード・シアガ党首を説得してステージに参加させ、そこで二人は握手した。当時のジャマイカではそれは信じられない出来事だった。この行為の結果、彼は翌年、ニューヨークで国連平和賞を授与された。

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不幸なことに、マーリーは十分名声を楽しむ時間がなかった。1980年、ニューヨークツアーの最中、セントラルパークでジョギングしていて倒れた。医師は彼の体全体にガンが広がっていて、回復の見込みがないことを知った。それにもかかわらず、彼は公演を続けた。しかし結局、偉大なるボブ・マーリーはガンに打ち勝つことができなかった。彼は1981年に36歳で亡くなった。息子ジギーにあてたマーリーの最期の言葉は「お金で人生は買えない」だった。

彼の死後30年近くたったが、世界の人々はまだボブ・マーリーを覚えている。彼の名前は永遠にレゲエと、表現の自由と、社会的反抗とに結び付けられている。彼の短い人生は、十分な自信と決意があれば偉業も成しえることを証明した。レゲエの王様が言ったように、「人生は標識がたくさんある1本の太い道路だ。車で走るとき、憎しみや嫉妬で心を乱してはならない。自分の考えを大事にするように。理想を実現させよ。目を覚まして生きよ!」/


2008年6月22日 (日)

POLESTAR READING lesson3

ポールスターリーディングlesson3

Name Order and Culture  ─姓名の順序と文化─

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“マリコ・ヤマダ”か“ヤマダ・マリコ”か─これによって違いが生じるのだろうか?たいていの日本人は英語で自分を自己紹介するときは名を先に言う。日本人は姓名の順序をひっくり返す。けれども近年、そんな風にひっくり返す必要はなく、日本人は英語を話すときでも元の姓名の順序を守るべきだと主張されるようになってきた。あなたはこの主張について何を思うだろうか?

この問題に関する2つの対立する意見がある。

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意見A

日本人が英語で自己紹介をするとき、日本人はたとえば“マリコ・ヤマダ”のように英国の姓名の順序に従うべきであるが、それは次のような理由からである。

1に、言語と文化は切り離せない。ある言語を話すということは、その言語の背後にある文化に話しかけるということであり、英語を話すときは英国の文化の規則に従うべきである。なのになぜ英語でコミュニケーションをとる日本人は自分の文化的慣習に固執するのだろうか?“郷に入っては郷に従え”という格言を思い出すがよい。英国の文化の規則を曲げるべきではない。

2に、“ヤマダ・マリコ”は国際的な場では誤解を招く可能性がある。もしあなたが“ヤマダ・マリコ”と名乗ったら、英語の話し手の中には実際に“ヤマダ”が名だと思ってしまうだろう。あなたは彼らに、“ヤマダ”とか“ミス・マリコ”と呼ぶようしむけているのである。こうしたことは必ずしも礼儀正しいとは言えず、それゆえ混乱を招くような自己紹介はすべきではない。

3に、日本人が英語を話すときは名を先に言う原則は確立された慣習となってきており、いずれにせよほとんどの日本人はこの慣習に従うだろう。けれどももし他の人々が“ヤマダ・マリコ”を使い始めたら2通りの呼び方が共存することになり、これまたきわめてややこしいことになる。名前とは習慣的なものであり、人は不必要な混乱を避けるために同じ原則に従うべきである。今までのところ“マリコ・ヤマダ”で何ら問題も起こっていないのだから、“壊れてもいないのに下手にいじるな(触らぬ神にたたりなし)”である。

意見B

日本人は英語と話しているときでも(日本人が最近までしていたように)姓名をひっくり返す必要はない。日本人が“ヤマダ・マリコ”のように元の姓名の順序を守るのは許容範囲内である。この主張は次の3つの理由に基づいている。

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1に、人物の名前はその人の文化アイデンティティの重要な部分である。日本人は国際的な場で英語でコミュニケーションをとるときでも自分の文化アイデンティティを尊重することを許されるべきである。

2に、英語の話し手は日本語で自分の名前を言うとき日本の姓名の順序に従うことを要求されない。もし日本人が英語を話しているとき“マリコ・ヤマダ”と言うよう要求されるとしたら、

日本人以外の人が日本語を話すときは、“私の名前はスミス・ジェニファーです”というように(姓を先に言う)日本の文化的慣習に従うことを望むのが公平というものだろう。けれども、日本に住む多くの英語のネイティブの話し手は日本語でも自分の名前をひっくり返しはしない。彼らの態度を改める必要があるだろうか?たいていの人はそうは思わないだろう。同じことは、英語を話しているときに日本の自己紹介の仕方に従う日本人にも当てはまる。

3に、中国人や韓国人は、たとえば“毛沢東”や“金大中”というように、英語でも必ずしも名前をひっくり返さない。日本人だけが元の姓名の順序を入れかえなくてはならないもっともな理由は何一つない。英語は今では国際語となっていて、そのようなものとして多様な文化的背景を持つ人々に使われている。もはや英国文化やアメリカ文化だけが唯一の規範ではない。それどころか、英語のコミュニケーションにはいくらかの多様性は許容、あるいは奨励すらされるべきである。/


POLESTAR READING lesson2

ポールスターリーディング lesson2

Bollywood -Another Hollywood in India-

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たいていの人々は映画界の中心地はアメリカのハリウッドだと考える。けれども一部の人々によれば、映画の本当の中心地はインドのムンバイである。ムンバイはかつてボンベイとして知られていたので、そこの映画産業は“ボリウッド”と呼ばれる。ボリウッドはハリウッドの2倍の年間800本以上の映画を制作し、アメリカ人がハリウッド映画を見るよりさらに多くの人々がボリウッドの映画を見に行く。

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ボリウッドの作品はハリウッドのものとはとても異なっている。1つには、ボリウッド映画はより長く、しばしば3時間以上続き、歌や踊り、アクション、アドベンチャー、ミステリー、そしてロマンスを含んでいる。加えて、幅広い観客を満足させ、インドの文化を反映したはっきりした特徴がある。たとえば非難されるインド人がいるかもしれないので通常はキスはなしである。(とがめるために)親指を振ったり(敬意を示すために)足に触ったりというような他のちょっとしたジェスチャーは有名で受け入れられている。ボリウッド映画はさまざまな特徴を含んでいるので、この映画スタイルは時々香辛料を混ぜたものである“マサラ”と呼ばれる。

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もう1つの大きな違いは映画の作られ方である。ボリウッドの映画制作にかかる時間はハリウッドよりはるかに少ない。実際、脚本が仕上がってもいないのに撮影が始まるかもしれない。映画が制作されている間に監督と脚本家がストーリーを練り続けていることもある。時には脚本を、時間を取ってタイプする代わりに手で書くこともある。

ボリウッド俳優はとても人気があり、大いに必要とされているのでしばしば同時にいくつかの映画に取り組む人もいる。彼らは同じ衣装とロケ地を使いながら、同じ日にいくつかの映画のシーンを撮影しさえするかもしれない。たいていのボリウッド映画は似たようなストーリーを踏襲するからこれは俳優や監督にとっては大きな問題ではない。これもまた制作費をハリウッドより低く抑えておくのに役立つ。ボリウッド映画の平均予算である200万ドルはハリウッド映画の6,000万ドルと比較するとたったの30分の1で、とても安く思える。とても多くの映画を制作できるのも不思議ではない。/


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Alfred Nobel: A Person of Peace

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1888413日、新聞がアルフレッド・ノーベルの死を発表した。記者は“ダイナマイト王”である彼を死の商人と呼んだ。彼が強力な爆薬を発明したからである。実際、彼はダイナマイトの商売で大富豪になった。新聞記事は彼の年齢・国籍・彼の商売に関するその他の情報を挙げながら続いていたが、55歳のスウェーデン人の男は“死の商人”という所までしか読まなかった。

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アルフレッド・ノーベルは悲しげに新聞を置いた。違う、彼は死んではいなかった。前日、兄のルードヴィ・ノーベルが死んだのだが、フランスの新聞が間違えたのである。

それでも彼は狼狽した。世界の人々はこんな風に彼を記憶することになるのだろうか?そんな風には絶対思いたくなかった。彼は世界平和のために働いて人生を過ごしてきた。彼は暴力と戦争を憎んだ。彼は命を救うためにダイナマイトを発明した。当時使われていた他の爆薬はとても危険だった。彼は人々に平和の人として記憶して欲しかった。

多くの国々が鉄道やトンネルを作り始めていて、山を貫く鉄道の線路を敷設するため安全で強力な爆薬が必要だった。人々はまた、建物やダム、道路を建設するのに石を爆破させるためにもダイナマイトが必要だった。アルフレッド・ノーベルはこれらの平和的な使い道のためにダイナマイトを発明したのだった。

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ノーベルは世界の人々が持っている彼のイメージがとても不満だったが、どうすればいいか分からなかった。彼は自分の死後、人々が900万ドルという財産を使う一番いい方法を考えた。その後、1895年、サロモン・オーガスト・アンドレイというスウェーデン人冒険家が北極点に到達する計画を立てた。世界中の人々がアンドレイの冒険に興奮した。ノーベルも彼の計画について読んでひらめいた。彼はついに自分の財産の使い道を知ったのである。彼は遺書を書き、その中で科学・文学・平和の先導者に栄誉を与えるための賞にお金を使うよう告げた。彼はこれらの指導者は男でも女でもどこの国の人でもよいと述べた。

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18961210日、アルフレッド・ノーベルは63歳で死去した。彼は結婚しなかったし子供もいなかった。世界中の人々は彼のお金を手にするのは誰なのか疑問に思った。彼らは物理学・化学・医学・文学・平和の分野で賞を授けるというアルフレッド・ノーベルの計画を知った時とても驚いた。最初のノーベル賞は1901年に授与され、すぐにノーベル賞はこうした分野で人が受けられる最高の名誉となった。1969年に経済学賞が加えられた。

1888年のアルフレッド・ノーベルの死の報道は間違いだったが、この間違いのおかげで今では世界の人々が彼の望んだ“アルフレッド・ノーベルは平和の人”というイメージを持っている。/