2008年7月 8日 (火)

POWWOW READING lesson7

パウワウリーディング lesson7

Seize the Day

新任英語教師のキーティング先生は部屋の正面に座り、窓の外を見つめていた。少年たちは座って待ったが、キーティング先生は窓の外を見続けた。少年たちは居心地悪そうにそわそわし始めた。全員座ったと感じ取ると、キーティング先生は生徒たちの方に向き直った。彼は出席簿に目を落とし、「ピッツ君。」と言った。「ピッツ、教科書の542ページを開いて、詩の第一節を読んでください。」

「『乙女たちよ、時間を惜しめ』ですか?」ピッツが聞いた。

「それだ。」キーティング先生が言い、クラスの少年たちはクスクス笑った。ピッツは咳払いをした。

ばらのつぼみは早く摘め

時間はたえず過ぎてゆく

今日は微笑むこの花も

明日は枯れつつあるだろう

彼はとめた。「ばらのつぼみは早く摘め。」キーティング先生が繰り返した。「この詩人は今を生きよ、すなわち時間をむだにするなと言っている。なぜこの詩人はこうした詩句を書いたのかな?」彼は叫んだ。「それは私たちが限られた回数の春、夏、秋を経験するだけだからだ。」

キーティング先生は言葉を続けた。「信じがたいことではあるが、私たちは皆いつか息をするのをやめ、冷たくなり、そして死ぬ!」彼は仰々しく一区切りし、それから生徒たちに記念品展示室に行って670年前にこの学校に通っていた少年たちの顔を見るように言った。

少年たちは立ち上がって記念展示室に行き、壁に並んだクラス写真を眺めた。彼らは過去の世界から見つめてくる若者たちの顔を眺めた。

「君たちと大して変わらないだろう?君たちみたいに彼らの目には希望がある。ではその笑顔は今やどこへ行った?希望はどうなった?」キーティング先生は次々と写真を指差しながら部屋をすばやく歩きまわった。「人生の成功を追い求めるうちに、彼らは少年時代の夢を忘れはしなかっただろうか?彼らのほとんどはもう死んでいる。しかしそばに近寄れば、彼らがささやいているのを聞くことができる。さあ、近寄ってごらん。」先生が促した。写真に身を傾ける少年もいた。

「今を生きよ。」キーティング先生は騒々しくささやいた。「人生を桁外れなものにするんだ。」少年たちは思いにふけって壁の写真をじっと覗き込んでいたが、出し抜けにチャイムの音に妨げられた。

ニールが足早にダイニングに入ってきて一緒に座ったとき、少年たちはみんな彼のほうを向いた。

「信じないだろうな!」彼は息を切らしながら言った。「図書館で先生が最上級生だったときの年鑑を見つけたんだ。」ニールはキーティング先生のほうを見たが、彼は教師用のテーブルに座っていた。ニールは年鑑を開いて読んだ。「サッカーチーム監督。年鑑の編集者。死せる詩人の会のメンバー。」

「死せる詩人の会って何?」パラパラとページをめくってキーティング先生のクラスの古い写真に目を通しながらノックスが聞いた。

「それしか書いてないよ。」ニールが言った。

放課後、ニール、チャーリー、ピッツ、キャメロン、トッドは一緒に寮に向かった。彼らはキーティング先生が腕いっぱいに本を抱えて芝生を横切るのを見つけた。

「キーティング先生?」ニールが後ろから呼んだ。キーティング先生は足を止め少年たちが追いつくのを待った。「死せる詩人の会とは何ですか?」ニールが聞いた。一瞬、キーティング先生の顔が赤くなった。「ちょうど古い年鑑を見ていて。」ニールが説明した。「それで…」

「研究熱心なのは悪くない。」キーティング先生が言った。「君たちは秘密が守れるかな?」彼らは即座にうなずいた。

キーティング先生が説明した。「死せる詩人の会とは『人生で最も大切なものを探求すること』に専念する会のこと。このソローの句は会の始めに読まれたもの。私たちの小さなグループはよく古い洞窟に集まり、交代で読んだものだった。シェリー、ソロー、ホイットマン…。」彼は目を輝かせ自分の経験を思い出した。

「死んだ詩人の詩だけを読んだのですか?」ニールが聞いた。

「いつもというわけじゃない。会の名は単に会に参加するためには死人にならなければならないということを意味しているだけだ。」

「え?」少年たちは声をそろえて言った。

「生きている人間はまったくの初心者だ。正会員になるためには全人生を詩にささげなければならない。私もまだまだ初心者だ。」彼は説明した。

少年たちは驚いて顔を見合わせた。「最後の会は15年前だったはずだ。」キーティング先生は思い出した。彼はあたりを見渡して誰も見ている人がいないのを確認した。それから向きを変えて立ち去った。

「彼の言っていた洞窟ってどこだろう?」ピッツが聞いた。

「小川の向こうだ。その場所、僕、知っていると思う。」ニールが答えた。

数時間後、みんながぐっすり寝入ったと確信し、少年たちはカエデの老木に集まった。彼らは冬服を着込んでいて、中には道を照らすための懐中電灯を持っている者もいた。

少年たちは星明りの下で構内を横切った。

「寒い。」洞窟に行く途中、森を通って歩いているときトッドがぐちを言った。彼は詩を無理に読まされるのを怖れていた。彼は自分が詩を読んだり書いたりするのは得意ではないと考えていたからだ。

「もうすぐだ。」ノックスが言った。彼らは小川の岸にたどり着き、洞窟を探し始めた。洞窟を見つけたのはチャーリーだった。

少年たちは暗い洞窟の中に這って入り、たき火をおこそうと数分かけて枝や木材を集めた。たき火が燃え上がって洞窟内を暖めた。少年たちは教会にいるかのように無言で立ち上がった。

「では再び死せる詩人の会を開催する。」ニールがおごそかに言った。「この会は私と、今ここにいるその他の新しい初心者によって行われるであろう。トッド・アンダーソンは朗読を好まないので、彼には会の記録を取ってもらう。」ニールがそう言うと、トッドは顔をしかめたが黙っていた。

「では会のメンバーであるヘンリー・デービッド・ソローの昔から伝わる開会の句を読む。」ニールはキーティング先生から借りていた本を開いた。彼は読んだ。「『私が森に行ったのは思慮深い生き方をしたかったらからである。』」彼は本文を飛ばし読みした。「『私は人生を深く味わって生き、人生で最も大切なものを探求したい!…死にゆくときに自分が生きていなかったことを知るためではない。』」長い沈黙があった。

それから少年たちはキーティング先生の本の詩を交代で読んだ。最後にニールがテニスンのユリシーズを読んだ。

来るがいい、友よ

新しい世界を探すのに遅すぎることはない…

私の決心は固い

夕日の向こうへ帆走しよう…

少年たちはニールの情熱のこもった朗読とテニスンの決意の表明に感動して静かになった。

洞窟のたき火は消え、森はとても暗くなった。興奮が冷めた。彼らは夜の寒さに震え始めた。

翌日、授業の終わりに、キーティング先生が少年たちに言った。「君たち一人一人に授業で朗読するための詩、君たち自身の何かを書いてきて欲しい。では月曜日。」

トッド・アンダーソンは自分がどうしても詩を書けないことを知っていたから惨めな気持ちだった。

次の月曜日、キーティング先生の授業で最初に創作詩を読んだのはノックスだった。

彼女の笑みの愛らしいこと

その目に明るい光の輝く…

「いいですね、ノックス。よくできた。」キーティング先生が言った。彼は教室の前を行ったり来たりした。「では次に朗読したい人は?ほら。どうせ最後は皆にあてるんだから。」

キーティング先生は見渡したが、志願する者はいなかった。彼はトッドに歩み寄り、にっこり笑った。「アンダーソン君を見なさい。苦しんでいるな。読みたまえ、トッド。私が安心させてあげよう。」

生徒はみんなトッドを見た。

トッドは立ち上がり、のろのろ教室の前に歩いてきた。

「トッド、詩は用意してきたのかな?」キーティング先生が聞いた。トッドは首を横に振った。

「自分が内に持っているものはすべて価値がない、アンダーソン君はそう思い込んでいる。」キーティング先生が言った。「今日、私たちは彼の内にあるものが非常に価値があることを知るだろう。トッド、ドアの向こうにホイットマンの肖像画がかかっているね。彼を見て何を連想する?早く、アンダーソン、考えてはだめ。」

「…狂人。」トッドが言った。

「狂人。どんな狂人?考えない!答える!」

「イカれた狂人!」

「想像力を使うんだ。」キーティング先生が促した。

「僕の脳を打ち叩く目で見ている。」トッドが言った。

「素晴らしい!さあ、これはまさに詩人が話しているのだ。目を閉じなさい。何が見える?その詩人に行動させなさい。リズムを与えて!」

「いつも彼はのろのろぶつぶつ言っています…」

「ぶつぶつと何を?」

「真実…」トッドが叫んだ。「真実とはいつも足を凍えたままにさせる毛布みたいなもの!…死ぬその瞬間まで、泣いて叫んで悲鳴を上げてもその毛布は頭だけしか覆ってはくれない!」

キーティング先生は歩いて彼の隣に行った。「ほうらアンダーソン君。君の中にも不思議な力が宿っている。忘れるんじゃないぞ。」

トッドは深呼吸して初めて笑った。

「ありがとう、先生。」彼は言った。/


2008年6月 8日 (日)

POWWOW READING lesson6

パウワウR lesson6

Silent Spring  ─沈黙の春─

人間は空と大地と海を汚染してきた。ごく最近になってやっと人々や政府はPCBやダイオキシンのような化学薬品の危険性を認識し始めた。中には私たちの生命力を損ねるものやガンを引き起こすものもある。

世界の人々に化学薬品の危険性を初めて気付かせたのがレイチェル・カーソンだった。彼女が子供のとき、母親は彼女に自然の世界の美しさと神秘を認識するように促した。父親の農場には森や野原があって、そこを彼女が探検した。彼女は鳥、昆虫、花を観察しながら森の中や小川のそばで長い時間を過ごした。「野外や自然の世界に興味を持たなかった頃など思い出せない。」彼女は後々言った。

レイチェルはまた本を愛し、作家になりたいと思った。10歳のとき、彼女は小説を書いて雑誌に送った。それが入選した。しかしながら成長するにつれ彼女は自然の勉強により注意を払うようになった。大学2年の終わりまでに、彼女はただ小説を書くより生物学を学ぶことに興味を持つようになった。

早くも1945年に、『沈黙の春』の出版の17年前であるが、レイチェルはリーダーズ・ダイジェストにあてた手紙の中で初めてDDTの危険性への懸念を表明した。彼女は新しく発見された化学薬品の昆虫への強い効果についていろいろ聞いていた。彼女はそれが自然の均衡に他にどんな影響を与えるのだろうかと思った。

19581月、友人のハキンズ夫人から、彼女の住む小さな世界から生物がいなくなったと書いてある手紙を受け取った。「去年の夏、蚊を駆除する飛行機が私たちの小さな町の上空を飛びました。直後に‘無害な’散布がかわいい小鳥を7羽殺しました。翌朝ドアのすぐ近くでもう3羽の死体を拾いました。彼らは私たちの近くに住み、私たちを信頼し、毎年私たちの木に巣を作っていた鳥たちでした。」

1962年、『沈黙の春』が出版されてまもなく、レイチェルはハキンズ婦人に手紙を書いた。「私が本を書くのを励ましたのがあなたの手紙でした。あなたは私に誰か手助けしてくれる政府筋の人を見つけて欲しいと頼みました。私はその‘誰か’を見つけるために本を書いたのです。」

『沈黙の春』で、レイチェル・カーソンは、湖や川に投入した毒は自然の循環に入るだろうと語っている。プランクトンから魚に入るというように、毒は食物連鎖を通じて生物から生物へと移る。

一例がカリフォルニアのクリアレイクの悲しい話に見られる。この湖はサンフランシスコの約90マイル北にあり、長いあいだ釣り人に人気があった。釣り人と湖のほとりに住む人々にとって不幸なことに、湖の水は小さなブヨの理想的な住処となっていた。ブヨは刺さないが、数が多いので人間は不快だった。ブヨを駆除する努力がなされたが、1940年代の終わりにDDTに近い種類のDDDが新たな攻撃法に選ばれるまで無駄だった。DDDは最初はよく効いたが、その効果は長続きしなかった。1954年までにその散布は繰り返さなければならなかった。

続く冬の間の数ヶ月に、他の生命も影響を受けているという兆候が表れた。湖のほとりに住むカイツブリが死に始め、すぐに100羽以上が死んだ。後になってさらに驚くべきことが分かった。薬品散布の1年後、死んだすべての魚や鳥、カエルの死体にまだDDDが残っていたのである。

『沈黙の春』は、1962年にザ・ニューヨーカーの連載記事として発表されたときセンセーションを巻き起こした。同年、完結本が出版された。

チャールズ・ダーウィンの『種の起源』以来、1冊の本がこれほど厳しく非難されたことはなかった。ダーウィンの研究は教会の権力に異議を唱え、一方、『沈黙の春』は化学薬品の製造業者を怒らせた。仕事を失うのみならず、自然界に対して無責任だと酷評されたことによっても、彼らは彼女に腹を立てた。

彼女を激しく非難する化学薬品の製造業者もいた。「化学薬品がなかったら、蚊が媒介する病気で多くの人々が死ぬだろう。その上、ジャガイモやその他の作物も病気や虫で枯れてしまうから多くの人々が飢えるだろう。」レイチェルは答えた。「私は薬品を絶対使ってはいけないとは言っていません。私が言いたかったのは毒薬を見境なく使う人の手に委ねてしまったということです。」レイチェルは化学薬品の製造業者が“進歩”の名の下に自然を破壊するのを許さなかった。

『沈黙の春』が論争を巻き起こしたことはレイチェルにとって驚くにはあたらなかったものの、その好評ぶりは予想以上だった。多くの読者が彼女とザ・ニューヨーカーの編集長に、今になって知らされた深刻な事態を改善して欲しいと述べた手紙を書いた。

ときどきレイチェルは特に心を打つ、励みになる手紙の写しを親しい友人に送った。ここにそうした手紙の1通がある。

─カーソン様へ。

僕は都会っ子で自然にとても興味があります。僕はザ・ニューヨーカーに載っていた素晴らしいエッセイのことであなたに感謝しなくてはなりません。あなたは科学者であるだけでなく詩人でもあるときっと何度も言われたことでしょうが、僕自身もあなたにそう言いたいです。あなたは詩人です。それはあなたがとてもうまく言葉を使うからというだけでなく、人間以外の生物を言葉で描くことによって僕たち読者にこの地球での人類の立場をよりよく分からせてくれたからです。僕は人間らしくなったと感じます。というのは今日、あなたの素敵な愛情のある言葉を読んだからです。─

手紙の上にはカーソン婦人の自筆のこんなメモがあった。「この1通だけでも長年取り組んできたかいがあるというものです。」/

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オーストラリアの法律専門家は政府にツバルという小さな島国の訴えを真剣に受け止めるよう戒めた。もし気候の変化によって水位が上昇すればツバルは沈みかねない。50年以内に侵食され消滅してしまうかもしれない。ツバルの首相は、ツバルと他の2つの島国が環境を汚染する主要な国に対して訴訟を起こすつもりであると発表した。オーストラリアは地球温暖化の責任とされる温室効果ガスを排出している国の1つである。

ツバルは9つの小さな島から成っており、土地面積はワシントンD.C.の約10分の1で、全人口は約11,000人である。世界でも有数の低地国で、海抜は最高で4.5メートルである。ツバルはまたたばこや石油、カーメーカーに賠償請求することも考えている。


2008年5月25日 (日)

POWWOW READING lesson5

パウワウリーディングlesson5

Ice Bound  ─氷に閉じ込められて─

「これは一生に一度のチャンスだよ!」兄の一人、スコットが私に言った。「僕だったら南極に行くために何でもするよ。」宇宙航空産業のエンジニアである別の兄のエリックが言った。「エンジニアは必要ないかな?チャンスがあったら僕も行く。」

父はそこまではっきりしていなかった。「あそこはえらい寒いぞ。」彼は言った。「知っているだろうが、あそこは脱出できないぞ。もし友達が病気になったり死んだりしたら、面倒を見られるのはお前だけしかいないんだぞ。」

彼は続けた。「もしお前が虫垂炎やあるいは癌にでもなったらどうする?お前は他の人間なら救えるが、自分を救えるのか?自分の命を救うために自分を手術する勇気があるのか?」

「もちろん、あるさ。」二人の兄が同時に言った。父はただ首を振るだけで、いつものように母の発言が決定付けた。「あなたはいつだって逆境に強かった。自分で考えられる一番いい人生を送りなさい。人生は長ければいいって物じゃないわ。」

こうして私の南極基地の医師になるという計画は家族に支えられた。しかし、父の心配が数ヵ月後に現実のものになるとは夢にも思わなかった。

ニュージーランドのクライストチャーチを出発し、19981121日にアムンゼン・スコット基地に到着した。それはオーストリアのアルプス並みの高さがありサハラ砂漠並みに乾燥している海抜約2,700メートルの氷の上に作られていた。そこの気温はマイナス75度まで下がることがある。この場所はまた最も風が強く最も人気のない場所でもある。

基地は高さ17メートル、直径50メートルの巨大なドームで覆われている。基地を風から守っているのがこのドームである。三つのプレハブ二階建ての建物が中にある。建物内は暖まっているが、ドーム自体はそうではない。ドームの内側は外とほとんど同じくらい寒い。

2月から10月の間の八ヵ月半の冬の期間中、南極は寒すぎて飛行機が着陸できないので外界から完全に遮断される。

その上、その期間中の半分は日光が差さないので暗闇で過ごす。私はその冬、40名の人々と基地での生活を共にした。私は自分も含め、チームを構成するメンバー全員の面倒を見た。

私は基地のクリニックを運営し、凍傷から砕けた骨まですべてを治療した。クリニックでの仕事に加え、他にもやるべきことがたくさんあった。そこでの生活は常に死と隣り合わせで、多忙で危険だった。

余分な物資を持ち込むのが難しかったから、基地にあるものはすべて貴重だった。もし機械が壊れたら、誰かが何としても修理しなければならなかった。とはいえ予備の部品はほとんどなかったけれども。私は物を直せる人を大いに尊敬するようになった。こうした天才の一人がケン・ローブで、彼は以前、アラスカでパイロットとして働いていた。

余分な人間もいなかった。誰もが重要な役割を果たした。苛酷な環境、外界からの隔たり、チームワークの必要性によって極地に生きる人々の間にとても強い共同体意識が生まれた。

与えたり貢献したり、愛情を注いだり犠牲を払ったりしたことで人々は愛された。外の世界とは違うが、外の世界は外見やその他そのようなくだらないことのために愛される。ここで重要なことは本当に重要なことなのである。

215日、基地は冬に向けて戸締りをし、10月まで出入りできない状態になった。程なくして、私は胸にしこりを見つけた。乳がんかもしれないと思った。確信が持てるまでチームのほかのメンバーには言わないことに決めた。いずれにしろ、飛行機が着陸するのは不可能だった。

胸のしこりはだんだん大きく痛くなっていった。ついに私は仲間とアメリカのASAに話すことに決めた。アメリカのがん専門家に指導されて、私は自分の生体組織検査を行った。友人の助けを借りて、リアルタイムの通信映像を使用した。生体組織検査によって私ががんだということがはっきりした。

真っ暗闇の710日に飛行機で緊急の医療用品を投下することが決まった。南極基地のすべてのメンバーが投下への準備を始めた。誰もが貢献する方法を見つけた。ローリーとダールはパイロットを私たちの基地に導けるように気象状態をチェックした。トムはコンピュータシステムと無線をチェックし、さらに念を入れてチェックした。

ジョンは1週間ずっと整備したりまるで生き物を相手にしているかのように話しかけたりしながら乗り物の修理に取り組んでいた。投下地点を照らすたき火の用意をする人もいた。

9時に、越冬隊長のマイク・マスターマンが人々に明かりをともすよう求めた。音が聞こえるより先に飛行機の姿が見えた。サッカー場の半分もありそうな巨大な飛行機が近づいてきて、合計6個の荷物を投下し、ニュージーランドへ引き返していった。空中投下は大成功だった。飛行機の搭乗員は無事で、私たちも誰もけがをしなかった。

新しく届けられた薬を使い、私は小さなクリニックで化学療法を始めた。マイクと他のメンバーたちが私を大いに助けてくれた。

最初は治療はとてもうまくいっていたが、薬の副作用のせいで髪が抜け始めた。とても悲しかったが、他の女性メンバーが励ましてくれ、私はまた先に進むことができた。結局、がんは薬に対して耐性を持ち、腫瘍が再び大きくなり始めた。

南極の冬はまだ終わってはいなかったが、私たちは救助を求めることに決めた。私に残された時間がわずかだと考えたからだった。こんな低温下で飛行機を着陸させるのはとても危険だった。全米が私を心配し、誰もがテレビの報道を固唾を呑んで見守った。ただ自分がニュースの種になったことで、私は自分が本当に嫌になった。

2機の飛行機に乗った救助隊は106日にニューヨークを出発し、その4日後にクライストチャーチに到着した。春の嵐と低温のため彼らは1014日までそこに留まらなければならなかった。

1015日、一機の飛行機がマクマード基地を離陸したが、天候のせいで引き返した。翌日もまだ悪天候だったが、着陸できるほど十分に暖かくなる見込みだった。嵐にもかかわらず飛行機が30分以内に着陸すると知らされたとき、私たちは跳び上がった。

引き揚げはうまくいった。南極でこれまでで一番早くて寒い時期の着陸だった。私を見送ったあと、ジョンが基地のメンバー全員にメールを送った。「素晴らしい光景だった。地上は吹雪いていたが、飛行機が飛んでいくのを見ていたら、上空が開けて飛行機が青い空の真ん中を飛んでいた。」

私はアメリカに運ばれ、そこで外科手術を受けた。運よくがんは転移せず、私は回復している。

私は南極で死に直面したことに大きな影響を受けた。しかし私は、考えを変え新しい目標を見つける機会を得たことにとても感謝している。私は他の人ががんと闘うのを助ける素晴らしい機会を与えられている。南極での友情の絆が一生続くことを私は知っている。/

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ある日、15歳のカナダ人の女の子であるエイミーは、学校の帰り道でガンの卵のある巣を見つけた。彼女はこっそりそれを家に持ち帰ってガレージの明かりで温めた。

2日後、16羽の小さなガンが生まれた。彼女は彼らに2時間おきにえさを与え、とてもよく面倒をみた。赤ちゃんガンはいつでもどこでも彼女についていった。彼らは彼女のことを母親だと思ったのである。

ガンたちは大きく成長したが、カナダの冬は彼らにとって寒すぎた。彼らは冬の間は南に飛んでいかなければならず、さもなければ死んでしまう。しかし母親や父親がいなくてどうやって南に飛んでいく方法を知ることができるのだろうか?

エイミーは軽飛行機の操縦法を習うことに決めた。エンジニアである彼女の父と、彼女の友人たちは1週間昼も夜も働き、彼女に飛行機を作ってあげた。

冬が近づいていた。ついに彼女が飛行機に乗って空を飛ぶと、ガンたちはずっと南まで彼女についていった。とても長くて危険な旅だったものの、彼らは無事、アメリカの沼地に着地した。そしてエイミーにとってとてもうれしいことに、ガンたちは翌年の春にまた彼女の元へと舞い戻ってきたのである!


2008年5月 7日 (水)

POWWOW READING lesson4

パウワウリーディング lesson4

Mahatma Gandhi -A Simple Man with Great Dreams-

─マハトマ・ガンジー─

マハトマ・ガンジーは偉大な夢を持つ純粋な男だった。夢の一つが、戦争や貧困なしに人々が平和に暮らすことだった。ガンジーにはもう一つ夢があった。インドが英国の支配から自由になることを望んでいた。彼はインド人たちに暴力を使わずに独立を求めて闘うよう話した。インドが1947年に独立を勝ち取ったのは彼の努力のおかげだった。それが彼がインドの父と呼ばれる理由である。

ガンジーは1869年にインドで生まれた。小学校では特に頭のいい少年というわけではなかった。けれども彼は強い向上心を持っていた。彼の教師の一人は言った。「マハトマは英語は得意、数学は並、地理は苦手。だが常に最善を尽くしている。」

高校のとき、ガンジーは英国に勉強しに行くという夢を持っていた。若いガンジーは英国こそまさに文明の中心地だと考えたのである。19歳のときその夢がかなった。彼は法律を勉強するためロンドンにやってきた。最初は、このインド出身の小柄で内気な男は英国での生活が困難だと感じた。しかし彼は一生懸命勉強した。1891年、彼は弁護士としてインドに帰った。

ガンジーはインドで弁護士として数年間働いたが成功しなかった。ある日、彼は南アフリカで仕事を依頼された。彼は新しい仕事を即座に受けた。

南アフリカも当時は英国の支配下にあった。到着後ほどなくしてガンジーは人種差別を経験した。彼は南アフリカの首都のプレトリア行きの列車に乗っていた。車掌がそばを通りガンジーを見ると、彼は怒って言った。「ここに座ってはいかん。ここは一等車だ。知っているだろうが有色人種はみんな三等車に乗らなければならん。」

「一等車の切符を持っています。」ガンジーは説明した。「弁護士として働くためここに来たところです。」

「三等車に戻らなかったら次の駅で放り出すぞ!」車掌が叫んだ。

ガンジーは席を立つことを丁寧に拒んだ。そのため彼は列車から放り出された。けれども彼は人種差別に立ち向かう勇気を出したことで自分に誇りを持った。

年月が過ぎた。ガンジーは南アフリカでインド人の人権を求める偉大な指導者になった。彼は不公平に対する非暴力闘争という独自の方法を生み出した。彼はこう記した。“私は大儀のためにいつでも死ねるが、決して誰も殺すことはない”

インド人は南アフリカで英国の支配と戦うガンジーを誇りに思った。彼は英雄としてインドに帰ったが称賛を好まなかった。ガンジーはインドの独立を望みはしたものの暴力を使う仲間のインド人には反対した。彼はまだ英国に大きな敬意を持っていた。

ガンジーは重要な会議に招かれた。中には英国と戦って力ずくで追い出したいというインド人もいた。ガンジーは仲間たちの怒った顔を見渡した。それから口を開いた。

「同胞たちよ。」彼は話し始めた。「私たちは英国人と共に長い道のりを歩んできた。彼らが去るときは友人として送り出そう。もし本当に何かを変えたいというのなら、列車を攻撃したり剣で誰かを殺したりするよりいい方法がある。私は彼らの心を変えたい。殺すのではなく。」

「英国に対して非暴力、非協力を用いよう。」彼は続けた。「もし私たちが彼らに協力するのを拒んだら、10万人の英国人は35,000万人のインド人を支配することはできない。私たちインド人がバスや列車を運転している。私たちが店や工場、官庁で働いている。もし働くのを拒んだら、この国は止まるでしょう。そうしたら英国人は私たちの話を聞かなければならなくなるでしょう。」

独立を求める非暴力闘争は何年も続いた。ガンジーは本を出し、演説し、平和的なデモに参加した。彼はインド中の貧しい人々を助けたかった。貧困をなくすため、彼は教育と地場産業の振興を奨励した。

ある日、友人のネルーが彼に言った。「インド中の人々が君のことを“マハトマ”と呼んでいる。ただ悪い知らせもある。戦闘が頻発している。多くの犠牲者が出た。」

「ならば戦闘が終わるまで私は断食しよう。」ガンジーは答えた。

「それでも戦闘は終わらないと思います。」

「もし私が死んだら終わるでしょう。英国人兵士がインド人を殺し、インド人が英国人兵士を殺す。目には目を、では世界全体が盲目になるだけだ。戦闘は止めなければならない。」

数日後、ネルーが会いに来たとき、ガンジーは断食のせいでとても弱っていた。ネルーは言った。「戦闘は止みました、マハトマ。明日カルカッタで1万人の学生が平和を求めて行進するでしょう。」

ガンジーは友人のほうを向いて弱々しく言った。「望みを失ったときはいつでも、歴史を通じて愛と正義が常に勝ってきたことを思い出す。」

1947815日、ようやくインドは独立国になった。長い自由への運動は、それはほぼ100年間続いたが、終わった。ニューデリーやカルカッタでは大きな式典が開かれた。

ネルーが最初の首相になった。どこにいる人でもガンジーがその職につくことを望んでいた。けれどもガンジーはそのことに関心がなかった。

「君に最初の首相になってほしい。」ガンジーはネルーに言った。「インドは、長い歴史を持っているが、新しい国に変わりつつある。将来、多くの困難があるだろう。君のような指導者が必要だ。」

1948130日、ガンジーは射殺された。世界中の人々が非暴力抗議の偉大な指導者の死を悲しんだ。けれどもガンジーの思想は世界中の他の指導者に影響を与えた。たとえばキング牧師は、彼は1960年代に黒人の権利を求めて闘ったのだが、多くのことをガンジーから学んだ。アルバート・シュタインはガンジーについてこう言った。「未来の世代の人たちは、かつてこれほど偉大な男が地球上にいたとは信じないだろう。」/

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マハトマ・ガンジーは、1869年にインドで生まれたのだが、人々に共に平和に生きて欲しいと思った。彼は英国で学んで弁護士になった。彼が人種差別を経験したのは南アフリカにおいてだった。南アフリカとインドで彼は英国の支配に対する指導者として闘った。けれども彼はインドの人々に非暴力闘争という方法を用いるよう頼んだ。自由を求める長い闘いのあと、1947年にインドは独立国となった。ガンジーは友人のネルーに最初の首相になるよう頼んだ。ガンジーの考えは世界中の他の多くの指導者たちに影響を与えてきた。/


2008年4月27日 (日)

POWWOW READING lesson3

パウワウR lesson3

Fermentation Is Power  ─発酵は力なり─

発酵とは、簡単な言葉で言えば、微生物の働きである。納豆は発酵食品である。納豆は納豆菌がゆでた納豆で増殖して作られる。1グラムの納豆にはどれくらいの納豆菌がいるのだろうか?約20億である。ぬかみそはもうひとつの発酵食品である。ぬかみそ1グラム当たり15億の菌がいる。

これらの微生物は2つのタイプに分類できる。ひとつは働きが人間の体にいい微生物のグループである。もうひとつは働きが人間に有害なグループである。よい微生物は発酵を引き起こす菌を含む。悪い微生物は人々を病気にさせる菌である。それらはまた食べ物を腐らせる。人々は発酵つまりよい微生物の働きによって生活を豊かにすることができる。

君たちの多くはきっと納豆が好きだろう。しかし納豆はどこから来たのか?君たちの多くは日本独自の食べ物だとおそらく考えるだろう。けれどもそれは正しくない。世界には他にも日本で見かけるのとまったく同じ納豆を作っている場所がある。

中国の雲南省のマーケットに行けば、いろいろな納豆が売られているのを目にするだろう。竹製の入れ物の中にわらで包まれた納豆を目にするだろう。それらは日本の納豆と同じにおいがする。納豆を食べる文化はミャンマー、カンボジア、ベトナム、そしてラオスといった東南アジアでも見つけられる。すなわち、納豆を食べる文化は山地で発達し、メコン川に沿って下へと広がってきた。

納豆はおいしいだけでなく、健康にもいい。納豆菌は腸の中で有害な菌が増殖するのを防ぐ。海外旅行中、私はいつも乾燥納豆を持ち歩く。あるとき、私は7人の日本人の若者と一緒にカンボジアへ行った。彼らはみんな結局ひどい下痢に陥った。私は彼らの二倍の量の食べ物を食べていたが、病気にはならなかった。納豆のため、私の腸は彼らの腸より丈夫だったのである。

毎日納豆を食べることにより、私の腸は納豆でいっぱいである。納豆菌は食中毒を引き起こしかねない危険な菌さえ絶滅させることができる。

数千年の間、日本人は日本の気候でよく育つ食物繊維が豊富な穀物を食べてきた。近年、日本の食事ほど徹底的に変わったものはない。伝統的な食べ物の多くがもはや食べられなくなり、そして今では多くの日本人が腸の病気に苦しむ。

発酵食品は消化を助ける。それらの中でもっとも有名なのがおそらくヨーグルトだろう。20世紀の初め、一人のロシア人科学者がブルガリアを旅行していた。そこで彼は大勢の100歳を越える健康な男女に会い、彼らが甘酸っぱい発酵乳を食べていることを知った。けれども当時はまだヨーグルトとしては知られていなかった。彼は、この発酵乳が彼らが長生きし簡単に病気にならない理由であることを発見した。この“長寿の妙薬”発見のニュースは世界中に広まった。ヨーグルトは今ではほとんどどこでも食べられている世界的な食べ物である。

もうひとつ忘れてはならない発酵食品がある。それは日本の漬物である。漬物を作るとき野菜の水分が減るので、最終的に出来上がったものは基本的に食物繊維から成っている。したがってほんの少し食べるだけで食物繊維を多く摂取できる。そのうえ漬物は一度も加熱しないので、ビタミンは失われていない。

何世代にもわたって、私たち日本人は米、野菜、魚、そして漬物を食べてきた。しかしながら、ここ2030年という短期間で私たちは肉や脂肪を多く摂取するようになってきた。同時に食物繊維の摂取は減ってきた。私たちの体と感情がこの徹底的な変化に順応できていないのは不思議ではない。日本ほど自国の伝統食を忘れてしまった国は他にない。ある日、私は自分が教えている大学で昼食を取っていた。数人の韓国の交換留学生が私にキムチをくれた。それがとてもおいしかったので、私はそれをどこで買ったのか聞いた。彼らの一人が答えた。「私たちは買っていません。自分たちで作りました。」私は一瞬、あっけにとられた。そして思った。「へー、それはたいしたものだ。」

若い韓国人たちは日本のキムチを安心して食べられない。大半の日本のキムチは韓国の本物のキムチほど発酵させていないのである。完全に発酵させれば、キムチは風味豊かで食べても安全なのである。発酵菌が有害な菌を殺すからである。

たとえ外国にいても、若い韓国人が自分たちの国の伝統食を食べたがっているのに感心した。若い日本人も若い韓国人と同じくらい自分たちの伝統食を評価してくれれば、と私は思う。

人類には21世紀中に解決しなければならないだろう4つの大きな問題がある。環境保護、健康促進、食糧増産、エネルギー不足の対処という問題である。これらの問題を解決するために、私は長年にわたって発酵技術革命を求めてきた。これは地球と人間にやさしい発酵菌を利用することによって達成できると私は信じている。まず、健康促進の問題を見てみよう。発酵菌は、発酵菌に自分たち以外の細胞を殺すよう命じる遺伝子を持っている。これらはキラー遺伝子と呼ばれ、抗生物質に使われる。抗生物質によって人間はコレラ、ジフテリア、肺炎のような病気から救われてきた。いつかガンやエイズも微生物でできた薬で治療されるだろう。

エネルギー問題もまた発酵技術革命によって解決できるだろう。第二次世界大戦中、エネルギーを生み出すのに発酵菌が使われた。日本には天然の石油備蓄がないので、飛行機の燃料も十分にない。現在、エネルギー問題に対して希望が持てることは発酵を使ってハイドロカーボンを作り出すことである。これら微生物の力には限界がない。人類がこれらの素晴らしい生物とともに生きられるようになる限り、人間にはまだ望みは多い。/

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微生物には2種類ある。1つは体によくてもう1つは体に毒である。よい微生物は発酵を引き起こす菌を持っている。発酵を利用することによって人々はよりよい生活を送ることができる。納豆とヨーグルトは発酵によって作られる。納豆は日本だけでなく東南アジアでも見られる。ヨーグルトはかつてブルガリアの伝統食だったが、今では世界中に広まっている。現在、多くの日本人は伝統的な日本食を食べていないようだ。この食の変化は体と感情によくない。発酵細菌は人間をコレラや肺炎などの病気から救ってくれる。微生物の力には限界がない。/


2008年4月26日 (土)

POWWOW READING lesson2

パウワウR lesson2

Two Orphaned Elephants  2頭の孤児のゾウ─

ある日、メル国立公園から緊急の電話が入った。2頭の孤児のゾウが見つかったというのである。さっそく私たちは飛行機でメルに行き、2頭をナイロビ国立公園のダフネ・ホームまで連れて帰った。飛行機を使ったのはメルからナイロビまで100マイル以上の距離があったからだ。

2頭の孤児のゾウは、ダフネがデュームとマレイカと名付けたのだが、ひどく体調が悪そうだった。彼らは別々の小屋に横たわって身動きひとつしなかった。ジルと私は彼らにえさを食べさせようとしたが、ミルクを数口だけ飲むのがやっとだった。彼らが生き延びたのは信じがたいことだった。

夕方に、奇跡が起きた。私たちの祈りに反応があったのだ。孤児のゾウたちは意識を取り戻し、ゆっくり動き始めた。デュームが回復したとき、彼は母を求めて必死に小屋から出ようとした。私たちは彼を寒くて暗い夜に放すことはできなかった。彼は壁をよじ登ろうとしたり、窓から鼻を突き出したりしながら、甲高い声で鳴いた。

マレイカが眠っているあいだ、デュームはもがいた。長く続いた夜が明けると、私たちは彼らを小屋から出してやった。彼らは小さな鼻を伸ばしてお互いに挨拶を交わした。それは感動の瞬間だった。

私たちは小屋の中で安心できるようにしなければならなかった。そのため、私たちは夜間は飼育係に彼らの傍らで寝てもらった。赤ん坊のゾウは野生の状態では決して一人きりにはならないことを私たちは知っていた。彼らは常に、母、おば、いとこ、姉妹などあらゆる年齢と大きさからなる家族に囲まれていた。

1週間後、デュームとマレイカを、私たちと1年間一緒にいる2頭の孤児のゾウのオールメグとダイカに紹介した。マレイカは彼らの周りで一応満足して遊んでいるようだった。デュームはオールメグとダイカに小さな鼻を伸ばした。オールメグは彼を受け入れた。しかし、ダイカは彼もマレイカも受け入れようとはしなかった。

ダイカはツァボから来た。彼は家族の10頭のゾウをしのんでそう名付けられたが、彼らはダイカ草原で殺されたのだった。彼が生きようとする様子を見せるのに4ヶ月かかった。最初、頭をたれて鼻をほとんど動かさないで、彼は毎日悲しそうに歩き回った。

デュームとマレイカに対するダイカの反応は、激しい嫉妬を示すためのものだった。彼らが来るまでは、ダイカが一番小さなゾウで、特別に愛されていた。いまやすべての注目が突然この新顔に向けられたのだ。彼は怒り、私たちが止めに入るまでできるだけ激しくぶつかって行って彼らをいじめた。

時間がたつにつれ、デュームとマレイカは公園内での生活にも興味を持ち始めた。私たちは彼らが森林で過ごす時間を徐々に増やしていった。まもなく彼らは小さな鼻で葉や枝をつかむのがうまくなった。

他のゾウたちとの関係もよくなり、ダイカはもう彼らをいじめなくなった。森林で、デュームはいつもオールメグのそばにいた。小屋への帰り道、マレイカはいつも先頭に立ち、他のゾウは穏やかに彼女に続いた。

デュームとマレイカにえさをやるのは簡単ではなかった。たとえばミルクはぴったり適温でなければならなかった。もし熱すぎたり冷たすぎたりすれば、彼らは飲むのを拒んだ。ジルと私は温度を計る達人になった。私たちは彼らの哺乳瓶を適温に保つため常にひとなべのお湯を用意した。

えさを与えたあと、彼らはたいてい倒れこんで泥の中で体をこすった。ゾウはしばしば泥で皮膚を覆う。なぜならそれが涼しさを保ち、昆虫から身を守ってくれるからである。

トラクターのタイヤのチューブでデュームとマレイカは何時間も楽しんだ。彼らははねたり登ったり、時にはその上で眠って楽しんだ。今では私たちの生活は幸せと笑いで満ちていた。

1ヵ月後、マレイカが重い病気になった。彼女は狂ったように動き回った。彼女はミルクを飲もうとしなかった。骨が浮き出て、目はもう輝かず、小さな鼻は左右に動くのを止めた。元気がなくなりつつあった。彼女はどんどん悪化した。

ゾウの病気に関してはほとんど分かっていなかった。どうしていいか途方にくれた。マライカが土の塊を食べているのを見て、私たちは彼女がもっとミネラルを必要としているのではないかと考え、ミルクにミネラルを加えた。

ナイロビの土と違い、ツァボの土はミネラルに富んでいることを私たちは知っていた。デフネが私に、マライカのためにそこに行って土を持ち帰るように言った。彼女は、これまたツァボで見つかるバオバブの皮にも90以上の微量元素が含まれていることを知っていた。彼女は皮がマライカの体にいいと考えたのである。

どの木から皮を取ればよいか私は知っていた。私はたびたびこの木を見ていた。ツァボに行く途中、その木の横で足を止めた。それは樹齢300年以上はあろうかという老木で、その木は知恵とやさしさでいっぱいだと考えた。その木からこれっぽっちも皮を取りたくはなかったが、マライカのためにいくらか取った。

家に近づくにつれ、一生懸命最悪の事態を想像しないようにした。「ゾウを失うことは大事な友人を失うようなものだ。」私は心に思った。帰ってきてジルを見た瞬間、マレイカがまだ生きていることを知った。

一度はダフネがマレイカが死ぬのは時間の問題でしかないと感じた瞬間もあった。けれども奇跡的にマレイカはまた哺乳瓶に興味を示し始めた。その後は彼女は日に日によくなった。

時間がたつにつれ、デュームとマレイカはますます泥遊びに興じるようになった。マレイカは特に泥遊びが好きだった。彼女はいつも泥に入る最初の、そして泥から出る最後のゾウだった。彼らのお気に入りの遊びは互いの上によじ登ることだった。彼らはサイのサムとも遊んだ。この2つの種は、一緒に育てられたので奇妙な友人関係を築いた。

199012月、4頭からなるゾウの家族を運んでジルと私は2台のトラックをツァボへと運転した。彼らの中にデュームとマレイカがいた。ツァボに着くのに7時間かかった。ツァボの大地に立って小さなゾウたちがトラックを後にするのを見るのはなんと素晴らしかったことだろう。私たちはこの友好的な生き物を彼らがいるべき場所、ゾウの国へと帰していたのだった。/


POWWOW READING lesson1

パウワウR lesson1

Tree Climbing Help Us Grow  ─木登りは私たちを成長させてくれる─

私は8歳のときに梢の世界を知った。私はカナダに引っ越してきたばかりのアメリカ人少年だった。私は臆病で自信もほとんど持てず、学校でずいぶんいじめられた。

ある日、祖父が私を散歩に連れ出した。彼は大きな木の下で足を止め、「よし、ジョン。この木に登ろう。」と言った。彼は登り始めた。彼は上へ上へと登っていった。彼に続いて私も全力を尽くして登った。ほとんど木の梢にたどり着いたとき、私は止まって見回した。世界が私の下に広がっているのに気付いた。

祖父は言った。「ジョン、お前は目の前の大きくて広い世界の中で生活をしているのだ。お前の学校はその中の小さな一部に過ぎないことが分かるだろう。視点を変えることによって、お前は安心するだろう、そして心の平和を見つけるだろう。ほら、周りを見てごらん。」町を見下ろすにつれ、私はより自由に、より自信を持つようになった。

その後、祖父は私に近所の子供たちとツリーハウスを作ってはどうかと言った。彼らはそれを作るのに関心を示した。毎週末、祖父の裏庭にますます多くの子供たちが集まった。ありがたいことに、私には友達がたくさんできた。

30年後、私はカリフォルニアでセコイアオスギに登る機会があった。登る前日、私は弓を使ってロープをかけた。翌日、セコイアに登るまえ、森に感謝の祈りをささげた。

登るにつれ、私は視界が急速に変化し続けているのに気付いた。約40メートル登った所で、私は周囲の木々が、それらは約20メートルの高さだったのだが、私の下に広がっているのが見え始めた。このセコイアオスギは周囲の小さな木を強風や雷から守っていた。しかし同時に、このセコイアはひとえに小さな木々にその根を支えられているから立っていられた。森のこの命の相互依存は森が永遠に生きられるようにするのだ。

2時間の木登りのあと、私はようやく60メートルに達した。小さな昆虫、樹皮に生い茂る植物、小鳥、それに他のさまざまな野生生物がこの巨大な木でともに生きていた。

さらに30分登ると、私は地上80メートルの木の梢にたどり着いた。私の下で、ヒナのえさを探してワシが羽を広げて飛んでいた。梢近く、幹に人一人が入れるほど大きな穴があった。私は一晩そこで過ごした。私は木に抱かれているのに気付いたのは、そのときが生まれて初めてだった。

ある日、オレゴンで私は18歳の若者と、彼のカウンセラーのマークと一緒に高さ60メートルのサトウマツに登った。この若者はわずか12歳のときに殺人を犯していた。彼は生まれたときから不幸な人生を送ってきた。木には母のぬくもりと人を変える力を持っていると信じていたから、私は彼を助けたかった。

木の根元で彼は手錠をはずしてもらった。それから彼はロープをつかんで私の後に続いた。マークも続いた。20メートル地点で、少年は緊張しているようだった。

40メートル地点で、私たちの下に世界が開けた。少年は生まれて初めて恐怖を経験しているようだった。彼は私に助けを求めた。私は彼の震える体を抱きしめ、「もう大丈夫だ。」と優しく言った。

マークが言った。「こんなに大きな木でさえ周囲の小さな木々に支えられている。君が社会に戻ったとき、自分自身を変えて他人に優しくすれば、君のことを支えてくれる人が周囲にいることに気付くだろう。」

私たちは木の梢で少年と4時間話をした。彼は取り乱して泣いた。そして彼は言った。「涙。涙って温かいんだね。」木から降りたあと、少年の目は、サトウマツに登る前はあれほど威嚇的だったのに、今ではどことなく暖かな優しさで満ちていた。

木の梢からの眺めはとてもいいので、時としてどちらかというと見たくない物まで見てしまうことがある。道端に投げ捨てられたごみは本当に目障りである。

私は日本である日、次の行動を目撃した。その日の朝、私はオークに登って双眼鏡とデジタルカメラで野鳥を観察していた。一台の車が止まった。中年の夫婦が出てきて車から古いテレビを取り出した。彼らは森にそれを捨てようとしていたのだ。私は「おはようございます。」と叫んだ。当惑した様子で彼らはテレビを、それは半分出かけていたのだが、トランクに押し戻した。それから彼らはすばやく車に戻ると走り去った。ツリークライマーが森の保護者として行動しなければならないのはずいぶん悲しいことである。

私はツリークライミングジャパンの創設者である。私たちは人々が安全に楽しめるようにツリークライミングのイベントを手配する。ツリークライミングは若者でもお年寄りでも、男性でも女性でも、そしてあらゆるさまざまな身体能力の人々でも楽しめる。私たちはできるだけ多くの人々に、木の梢で知る類のない素敵な気持ちを経験してほしいと思う。/