2008年11月15日 (土)

PROVISION ⅡREADING 1

プロビジョンⅡ ReadingⅠ

Choices Are in Your Hands



“人生はチョコレートボックスのようなもの。何が出てくるか決して分からないわ。”映画フォレストガンプのこのセリフはリエという名前の日本の女子高生を含むみんなの心をとらえた。しかし彼女は、自分が、数年後にこのセリフが本当に意味するものを実感する者になろうとは思ってもいなかった。

「死なせて。お願いだから死なせて。」ほとんどの日がこのうめき声で始まった。リエは、将来この闘いに勝った後どんなことができるか話して母ルリコに応え、精一杯の励ましの笑顔を浮べて母のほほをなでていた。母を死なせる代わりに、自分の気持ちを抑えて母を支え続ける必要があるとリエには分かっていた。
リエは母の呼吸障害の兆候を見逃すことを恐れ、夜もほとんど眠らなかった。痛み止めのモルヒネを打ち始めたため、彼女はもはや以前のような生き方ができなかった。彼女はリエが知っていた母ではなかった。彼女はよだれで口をぬらしたまま急にうとうとし、自分の考えを言葉にまとめようとするときでさえ口から物が出てきて床に落ちるだけだった。リエは無理して感情を抑えていたが、愛する母の身に起きたそれとわかるほどの変化を見守るのは、17歳の少女にとってとても耐え難いことだった。

たまにではあるが確かに具合のよい日もあった。リエはそれがとても幸せなチョコの一噛みだと知った。そんな日は、母は楽観的になり、部屋には笑い声があふれた。具合のよい日とふだんの日の落差が激しかった。二人は日差しや公園の青葉を、ただその日そのものを楽しむことができた。自分たちは元気に生きていて、死に直面しているわけではないと感じた。具合のよい日の終わりにいつも、リエはこんな日が続くことを祈った。しかし彼女の祈りは決して聞き入れられず、翌日には苦痛に襲われた。闘いと実時間の悪夢が戻ってくるのだった。
リエには二つの面があった。一つは、全てがよい方向に向かうようにと─母が奇跡的に回復し親子でその後ずっと幸せに暮らせるようにと祈りながら母の回復への望みを突き通すものだった。リエのもう一面は、母を通して死につつある人のあらゆる危篤の兆候を認識しており、また、自分の祈りが非現実的な夢にすぎないことも知っていた。しかしいずれにせよ、彼女は全てがよくなるかのような振りをする必要があった。彼女は母にいかなる絶望という考えも見せたくなかったのである。
半年の間、母を休むことなく看病した後、リエの身に説明しがたいことが起き始めた。彼女は母が汗をかくまさにその瞬間を感じた。彼女は、化学療法のせいで髪の毛を失っていた母と同様にたくさんの髪を失った。リエもまた、四六時中疲れきっていてどこにいてもひどい寒気を感じた。他人には、どちら危篤状態なのか見分けるのは困難だった。ルリコとリエはほとんど双子のように見えた。後になって、リエはひどい拒食症になっていて体重が12キロ減った結果、彼女自身が死にそうになっていたと告げられた。母の看病にとても集中していたので、リエはどれほど自分の体を大事にしなかったかほとんど忘れていた。

母は秋の初めに他界した。リエは心の準備をしていたつもりだったけれど、実際はまったく準備していなかった。母を救い一緒に暮らすことが目的だったので、彼女は完全に自制心を失った。笑い方を忘れてしまい、かつてのように楽しそうに振舞うことができなかった。自分にひどい苛立ちを覚えた。彼女の母の死はリエの祖母を始めとする全ての人に影響を及ぼした。祖母は、まるで自分も生きる意志を失ったかのように、娘リエコのわずか四ヶ月後に他界した。そんな短期間で自分にとって最も大事な人々を失ったので、彼女は自分も生きていたくないとさえ思った。
けれども徐々に、彼女は生まれて以来ずっと母から受けていた愛情や気配りに気付き始めた。亡くなった二人の愛情あふれる支えによって、複雑なジグソーパズルがはめ込まれていくようにこの人物、リエと名付けられたこの少女は形作られた。それでも彼女は二人の作品であり、彼女自身のものではなかった。彼女は二人の作品を台無しにすることはできなかったし、絵全体を完成させるための彼女自身のピースを探すのをあきらめることもできなかった。何より、二人の愛情に応えるために自分自身の生を生き続ける責任があると知った。
責任に応えようとする決意がありながらも、リエは自分の将来の願いを求めて平常心を失う傾向があった。亡き母に極度に尽くしたことで、彼女は自分自身の気持ちを知ることがなかった。それにいつも疑問がこう思い起こさせた。「何で私はまだ生きてここにいるの?」苦しめられ、彼女は母の大きな期待に応えるかのように必死で本当の自分より大きくなろうとせざるを得なかった。それは心の中の苦痛に満ちた悲鳴だった。彼女は母の死を受け入れたくなかった。

しかし数年たったある日、何かがカチリと音を立てた。「私は自分をだましていたんじゃないかな?」一息入れてあれこれ考えた。そして、本当は母の死を克服できてないのに、それを克服できるくらい成長している振りをしていただけだったと気が付いた。それどころか悲しみ、怒り、むなしさといった長く閉ざされていた本当の感情から逃れるために、無意識のうちに自分にどんどん負担をかけていたのだ。「なんで母のような心のきれいな人が死ななきゃいけなかったの?」「どうして皆、回復の見込みがなくなったと分かったとたんに母を見捨てるほど残酷になれるの?」「なんでもうお母さんに会えないの!」渦巻く感情と素直に向き合って彼女はようやく母の死を、それがどれほど痛ましいものだったかを受け入れることができた。こうして感情を受け入れたことで、彼女はしだいに自分の人生と母の人生との区別がつくようになって、自分の存在理由を再発見するにいたった。母の死後はじめて彼女は自分の人生を生きることにときめきを覚えたのだった。
過去と心の奥底を振り返って、彼女は自分の足で立つ特有の恐れを自覚した。それは死別した母に極度に尽くすことから来ていた。覚えていることと嘆くことは別である。彼女は愛する母が喜ぶだろうと思い込んで後者の行動をとっていた。それは幸せで安全な、しかし保護された子供時代という巣にいるための込み入った方法だったが、その子供時代は永遠になくなって、ただ記憶の中に存在するだけだった。もし巣から去らなければ、本当の成長を遂げることはないだろう。この苦くも目を開かせるような教訓を得たので、リエはもう過去とは決別すべきだと、そして自分自身の道へと目を向けるべきだと考えるようになった。成長して過去から抜け出すのは痛みも伴うだろう。でももう怖くはない。ようやく生きることを選んで、今、うれしく思っている。

“人生という箱からは、苦いチョコが出てくる日もある。でも覚えておいて。びっくりするくらいおいしいチョコはいつだってあるの。箱全体を考えなさい。一粒のチョコで判断してはだめ。噛んで、食べて、そして勇気をだしてもう一粒取りなさい。箱を食べ終えるまで、あなたが何を手にするか誰にも分かりっこない。選ぶのはあなた自身よ。”/


PROVISION Ⅱ lesson10

プロビジョンⅡ lesson10

Another Hey Jude






1960年代後半のある日、ポール・マッカートニーは友人の息子に会いに車を走らせていた。ポールの友人のジョン・レノンが妻と離婚することになっていた。ジョンの幼い息子のジュリアンは両親の離婚をとても悲しんでいた。ポールはジュリアンが大好きで、その少年と率直に話をしたかったのだが、彼のニックネームはジュールズといった。運転中、ポールの心の中で1つの歌が形を成し始めた。彼は歌いだした。「ねえジュールズ、落ち込まないで。悲しい歌を歌って元気を出して。・・・」

ポールがこの歌を作っているうちに「ジュールズ」は「ジュード」に変わった。こうして有名なポップソング、『ヘイ、ジュード』は生まれた。



この歌はビートルズが予想もしていなかったやり方で世界を変える力を持っていた。1968年、この歌が生まれたのと同じ年、チェコスロバキアは危機に直面していた。共産党の圧制を数十年間受けたあと、1968年1月に進歩的思考の主導者が政権を握った。彼はいくつか積極的な変更を行い、この間に人々により大きな自由を与えた。これは「プラハの春」と呼ばれた。この「季節」は同年8月までのほんの短い期間しか続かなかったが、そのときソ連の戦車がいきなりチェコスロバキアの国境を越えてきたのだった。



当時のチェコスロバキアでは、マルタ・クビショバという名の人気歌手がいた。幼い頃から音楽は彼女の生活の一部だった。18歳のとき、彼女は映画の歌のコンテストに参加し、優勝した。歌手としての彼女のキャリアが始まった。マルタがチェコスロバキアで名声を得るまで長くはかからなかった。

ソ連の戦車がチェコスロバキアに侵攻したとき、マルタは27歳だった。この侵攻のあいだに多くの国民が逮捕され、殺された。戦車から隠れながら、背後にソ連軍の銃声が響いている状態で人々は国営ラジオの最後のメッセージを聴いた。「みなさん、この放送はまもなく停止します。しかしこの国は私たちのものです。私たちは最後には必ずやこの国を取り戻すことでしょう。」

マルタは祖国にいる外国の軍隊を見るのが耐えられなかった。侵攻の直後、マルタは自分が知る唯一の方法─音楽を通じて抗議し始めた。彼女は人々に明るい未来への希望を与えるため、そして非暴力の重要性を強調するために歌のレコーディングを始めた。

実際、マルタの抗議は大きな危険を伴った。ソ連に支持された新政府は人々、特に芸術家や作家を迫害し始めたが、彼らは作品や思想を通じて闘う力を持っていた。もし彼らが政府に逆らって行動したら、強制的に国外退去させられた。マルタは屈しなかった。そうする代わりに彼女は歌をレコーディングすることで抵抗した。



ある日、彼女は西側のラジオ局で新しい歌を聞いた。その歌がビートルズの『ヘイ、ジュード』だった。この歌を聞くとすぐに、マルタはソ連と新政府に対する抗議のメッセージとして新しい歌詞で改作することに決めた。歌の中で、彼女は『ジュード』という名を使ったが、それはチェコ語では女の子の名前であり、歌詞を通じて彼女は祖国の人々だけが理解できるメッセージを送った。「ねえジュード、人生って素晴らしい。でも辛いときもある。それでもやっぱり前向きに生きるべき・・・」数ヵ月後、彼女はこの歌が入った新しいアルバムをリリースした。まもなくマルタの『ヘイ、ジュード』は自由を切望する数百万のチェコスロバキア人の賛歌となった。

新政府はマルタの歌が国民に影響を与えるのを心配し、1970年、彼女が人前で歌うのを禁止した。店は彼女のアルバムの販売中止を強いられ、彼女のレコードを所有するだけでも法律違反となった。ある日、マルタは自分のレコードが国家警察によって路上で粉々にされるのをぞっとしながら見ていた。ファンが地面に埋めたレコードさえ警察によって掘り起こされ壊された。

音楽の職を失ったので、彼女は別な仕事をして生きていかなければならなかった。彼女は何度も逮捕され、活動について尋問を受けた。彼女の古くからのファンや支持者は姿を消し、彼女の歌はもう聞かれなくなった。彼女にはとても辛い時期だったが、祖国を信頼することを決してあきらめなかった。



20年後の1989年、ベルリンの壁が崩れたとき民主主義の精神がチェコスロバキアまで広まってきた。国民は自由の日が近づいてきているのを知った。彼らは自由を切望したが、暴力を使って望むことはなかった。大学生に導かれた抗議運動が広がったが、彼らの戦術は言葉と人間の声の力だった。ある日、もう46歳になっていたマルタを、自由化を支持する大学生数人が訪れた。彼らは他の学生を勇気付けるため集会の1つで歌ってほしいと思った。最初、彼女はチェコスロバキアの国家を歌ってくれと頼まれるかと思ったので、彼らのリクエストがマルタの『ヘイ、ジュード』だと聞いて驚いた。彼女はその歌を20年以上も歌っておらず、思い出せるかどうか自信がなかった。学生が微笑んで言った。「大丈夫です。僕たちが歌詞を覚えています。」彼らの言葉は彼女を奮い立たせた。彼女が歌っているとき、学生がどんどん彼女に加わり始めた。まるでコンサートホールにいるみたいだった。

その後の数週間、学生たちは彼らの賛歌としてマルタの『ヘイ、ジュード』とともに何度も抗議行動を行った。この運動が国中に広まり、チェコスロバキアの圧制を終わらせるのに貢献した。1989年末、チェコスロバキアは再び自由な国になった。

自由を祝う大会で、マルタは数千人の観衆の前に立ち、彼らに向かって大きく腕を広げた。彼女は大きなホールに響く力強い声で歌い始めた。彼女の穏やかな表情に、過去の困難を感じさせるものは何もなかった。彼女は誇りと尊厳だけに満たされているように見えた。

彼女が『ヘイ、ジュード』を歌うのを聞いて、ホールにいた多くの人々は記憶をよみがえらせた。彼らはこの歌が圧制時代にどのように多くの困難に打ち勝つ勇気を与えてくれたか思い出した。今、みんながマルタの『ヘイ、ジュード』を彼女と共に歌っていた。もとは失意の英国人少年を元気付けるつもりだった歌が、数百万のチェコスロバキア人に希望を与える新しい意味を持ったのである。「ヘイ、ジュード、君は素敵な歌を持っているね。もしみんなが歌ったら君の瞳は輝くだろう。君がひとたび歌い始めれば、誰もが聞くだろう。君の歌は僕たちの夢を活気付ける・・・」/


PROVISION Ⅱ lesson9

プロビジョンⅡ lesson9

Keep Your Friendships in Good Repair





その悪い評判にもかかわらず、チスイコウモリは実は─少なくとも仲間同士では─高度に社会的な動物である。彼らが私たちにとってかなりショッキングな方法で、つまり大型哺乳動物の血を飲むことによって食料を得るというのは本当である。

たとえば彼らは飛行してウマの足に着地し、足の後ろに長さ約3ミリの切り口を作る。そこから彼らは血を飲む。彼らは切り口から舌を出し入れすることによって血を飲む。わずか15分の食事のあと、コウモリは体重の40パーセントに匹敵する量の血を飲んでいるかもしれない。これはそのコウモリにとっては大きな量だが、ウマにとっては微量である。ウマは、まるでそのコウモリがハエ1匹程度の迷惑でしかないかのように、ただ足踏みするだけかもしれない。この比較的少量の血を飲んだあと、チスイコウモリは被害者の皮膚にとても小さな穴だけを残して飛び去る。しかしこのめずらしい食物の摂取法は─たいていのコウモリは血ではなく昆虫や果物をえさにしている─チスイコウモリを社会的行動においてもめずらしいものにしている。



コウモリの多くの種は、日中は大きなグループを作っている。彼らがそうするのは暖かくして過ごすためだが、ただある特定の洞窟がたまたま乾燥していてかつ安全だからということもある。彼らはみんな、よい集合場所を構成するものについて同じ考えを持っている。

けれどもチスイコウモリが一緒にいるのには他の理由がある。彼らはいつも運よく食物を見つけられるわけではない。個体が外へと飛び出していったが、血を飲むべき大型動物が1頭も見つけられない夜もあるだろう。その個体は餓死という深刻な危機に陥る。チスイコウモリの注目すべき点は、そうした状況下では、チスイコウモリはお互いに食物を与え合うということである。その夜、運よくご馳走にありついたコウモリは洞窟に戻って自分が飲んできた血を飢えたコウモリに分け与えるだろう。

コウモリは仲間の誰が食物を必要としているか分かっているように見えるが、たまたまおなかを空かせたコウモリに食物を与えるのではない。彼らは食物を与えるのに母親や娘のような身内を選ぶし、過去に食物をもらった身内以外の特定の個体を選び出す。彼らは知らないコウモリに食物は与えないし、コロニーの1匹1匹に食物を与えることもない。

もちろん若いメンバーに食物を与えるのは動物のあいだでは全然めずらしいことではない。多くの種が自分に大きな代償を課して若いメンバーに食物を与えるのはよくあることである。しかしこれらのコウモリがするように、完全に無縁な個体に食物を与えるという話はほとんど聞くことがない。食物を与えるコウモリは、他のコウモリを飢えから救うことでどんな得をするのだろうか?やはり動物は利他的だということだろうか?



メリーランド大学の教授、ジェラルド・ウィルキンソンはチスイコウモリのあいだで何が起こっているのか解明しようと決めた。彼は何時間もチスイコウモリの集まる木の中をじっと注目してすごした。彼はまた特定の個体とそれがどのコウモリと食物を授受するかを入念に観察し続けられるよう、メリーランド大学でコロニーを作った。ウィルキンソンはある1匹のコウモリが食物を与えることもあれば他のコウモリによって食物を与えられることもあることに気付いたが、この違いから何が起こっているかについての手がかりを得た。

野生のコウモリに関する研究によって、ある特定の夜に食事にありつけるかどうかは概して可能性の問題だということを彼は知った。血を飲むべき動物を見つけるのが特に上手でいつも満腹で戻るコウモリもいれば、一方で何も見つけられないコウモリもいる、というわけではない。それとは反対で、ある夜は運のいいコウモリもいればそうではないコウモリもいて、数日後にはこの状況が完全に逆になるかもしれないということである。これはコウモリがお互い食物を与えあう機会が多くあるということを意味する。ある夜に1匹のコウモリが別のコウモリに食物を与えるかもしれないし、数日後に食物をお返しされるかもしれない。ある1匹のコウモリがしばらく食物を口にしなかった仲間に食事の血を与えるときは、そのコウモリはその時は何にもメリットがない。食物を与えるコウモリが得そうなものはそのうちやっと明らかになる。



しばらくコウモリを観察したあと、ウィルキンソンは、コウモリは以前に食物をくれた飢えたコウモリに好んで食物を与えることを知った。彼らは自分がツキに見放されたとき親切にしてくれたコウモリがどれなのか覚えていて、彼らが命を救う食物を与えるのはそうしたコウモリだった。彼らは以前に自分を助けなかったコウモリには食物を与えなかった。特定の友好的な個体と強い絆を保つことによって、コウモリは彼ら特有の食性が不確実になるのを防いでいた。

コロニーのどんなコウモリも、たとえ食物を見つけるのが最も上手なものでも、十分な食物が見つけられないということはいつでもありうる。それゆえ彼らはみな、可能なときに食物を与え、仲間が必要とするなら食物を与えることによって利益を得る。この仕組みをごまかそうとし、おなかがすいているときに食物をもらっても決して何もお返ししようとしないコウモリは、長い目で見れば、罰せられる。ごまかしたコウモリは一度は得をするかもしれないが、次におなかをすかせても他のコウモリは食物を与えず、その結果、死ぬこともある。与えるものがたくさんあるとき他のコウモリに食物を与えるのは、将来の厳しいときに対するコウモリなりの保険なのである。「交友は常に良好に保つべし」という古いことわざは、独力では生き延びることができないチスイコウモリにとっては厳しい現実を含んでいる。/


PROVISION Ⅱlesson8

プロビジョンⅡ lesson8

Finding the Real Santa Claus





君はこの上にある写真の女の子が誰だとされているか知っているだろうか?彼女はクリストキント、クリスマス・イブに現れるといわれるドイツの伝統的な人物を演じている。クリストキントは各家庭に来て子供たちに気付かれることなく彼らにプレゼントを届ける。

ロシアでは元日、デッド・マロースが孫娘のスネグローチカと共にやってくる。モミの木のそばに立ち、彼は自分に会いに集まった子供たちにプレゼントを配る。彼は長く白いあごひげを生やし、長い毛皮のコートを着ている。

これらの人物を見て誰かなじみ深い人を思い出さないだろうか?クリスマスが近づくと、私たちは暖炉のそばに靴下をつるし、クッキーとコップ1杯の牛乳と手紙を並べてこの特別な客の準備をする。眠い目をこすりつつ、子供たちは秘密の訪問者を見ようと夜遅くまで起きているが、彼はいつも子供たちが寝付いたあとにやってくる。翌朝、子供たちが目を覚ますときまでには彼は家に入り、そして出て行っているだろう。子供たちはクッキーと牛乳がなくなっていることに気付くだろうが、靴下の中とクリスマス・ツリーの下にプレゼントがるだろう。そう、もうお分かりだろう。訪問者の名前はサンタクロースである。



サンタクロースは約1,700年前に小アジアで生まれた1人の聖人にさかのぼる。彼の名前はニコラスといい、成長して哀れみ深く信仰の厚い若者になった。ニコラスの両親は彼がまだ小さいときに死に、彼に多額のお金を残した。彼は、人を助け人生を神への奉仕にささげるために自分の財産を使おうと決心した。小アジア周辺地域を国から国へと旅しながら、ニコラスは困窮している人々を助けた。後年、彼は海の近くのミュラと呼ばれる町に落ち着き、その地で司教になった。彼は善行により死後、聖人とされた。聖ニコラスは船乗りや子供たちの守護聖人として特に有名だった。

では小アジアの聖ニコラスはどのようにして私たちがクリスマスで見かけるサンタクロースになったのだろうか?聖ニコラスは4世紀半ばの12月6日に死んだと言われているが、この日は後に聖ニコラス・デイとなった。聖ニコラスの話は彼の死後、徐々にヨーロッパに広まり、数カ国の国民がこの祝日を祝い始めた。この日は他の人にプレゼントをあげる日だった。海上貿易を通じて強力になった国家であるオランダは聖ニコラス・デイを祝うことをとても大切にした。

17世紀、オランダ人はアメリカに移住し始めた。当時、たいていのオランダ人移住者はニューアムステルダムという町に住んだが、そこは今のニューヨークである。ニューアムステルダムのオランダ人は祖国でしていたのと同じやり方で聖ニコラス・デイを祝った。このように、12月6日にプレゼントをあげる伝統はまたアメリカの慣習にもなった。実際、オランダの「シンタクラース」に由来する「サンタクロース」は聖ニコラスを意味する。



長くてとがった帽子をかぶって馬に乗っている厳格な司教である聖ニコラスが今日知られている陽気なサンタクロースになるのに少し時間がかかった。

1822年、ニューヨークの学校の教師だったクレメント・ムーアが『聖ニコラスの訪問』と呼ばれる有名な詩を書いた。この詩はクリスマスの前夜に子供たちを訪れる一風変わった聖ニコラス像を描写している。

クリスマスの前の夜のことだった。家中で生き物は一匹も、ねずみ一匹さえ動かなかった

靴下は暖炉わきに注意深くつるされていた、

聖ニコラスが早く来てくれるよう願いをこめて、

・・・小さなそりと小さな8頭のトナカイ、

とても元気はつらつとした小さなおじいさん御者、

・・・

煙突を降りて聖ニコラスが一足飛びにやってきた。

彼は頭から足まで毛皮をまとっていた、

・・・

彼は幅広の顔と小さな丸いおなかをしていて

笑うとボールいっぱいのゼリーみたいに震えた。

・・・

この詩は敬虔な聖ニコラス像を描写していない。その代わり、この詩はトナカイに引かれたそりに乗った、太っていて陽気な小さなおじいさんを紹介している。ムーアはこの人物をまるで実生活で見たかのようにとても生き生きと描写した。『聖ニコラスの訪問』は童話の本として出版され、当時のアメリカの多くの人々に読まれた。

ムーアの聖ニコラスは童話の本の中では小人として描かれている。しかし1930年、サンタクロースのイメージがまた変わった。今度は彼は清涼飲料水の広告の中で笑っている、誰かのおじいさんのように見えた。現在おなじみのサンタクロースはこのようにして生まれた。



子供のとき、君は「サンタクロースはいるのだろうか?」と疑問に思ったに違いない。約100年前、バージニアという名前の女の子がニューヨーク・サン紙にあてた手紙の中で同じことを質問した。この女の子の質問への返事として、新聞の論説委員だったフランシス・チャーチはサン紙に記事を書いた。

はい、バージニア、サンタクロースはいます。愛や寛大さや信心が存在するのと同じくらい確かに存在します・・・

サンタクロースは誰にも見えませんが、だからといってそれはサンタクロースがいないという証拠ではないのです。世界で最も本当のものは子供にも大人にも見えないものなのです。今まで芝生の上で踊る妖精を見たことがあるでしょうか?もちろん見たことはないでしょうが、それは妖精がいないという証拠ではないのです・・・

サンタクロースはいないかって?彼は生きていますよ、永遠に生きています。バージニア、彼は1,000年後、いや、10,000年後だって子供たちの心を喜ばせるために生き続けるでしょう。

チャーチのメッセージは、人生で最も大事なものは目では見えないとうことである。愛は目では見えないが、存在する。親切は目では見えないが、それが示されたとき人は微笑む。

サンタクロース像は歴史や異なる文化を通じて変わってきたが、サンタクロースが象徴するものは同じままである。それは他人への誠意の心である。この心を持った人は誰でも本当のサンタクロースになりうる。/


PROVISOIN Ⅱ lesson2

プロビジョンⅡ lesson2

Tuvalu- Disappearing Island ─消え行く島─





日本から南東に約7000キロ飛ぶと、美しい青い海に浮かぶ小さな島国が飛行機から見えるだろう。それはツバルと呼ばれる。赤道の真下、フィジーの約1000キロ北の太平洋の真ん中にある。この国には小さな島が九つあるが、土地面積はわずか26平方キロしかなく、最高点も海抜5メートルである。

ツバルの人口はおよそ1,1000人で、そのほとんどが首都フナフティに住んでいる。ツバル人は共同的な生活を送っていて、自然環境と調和して生き、自然の恵みを受けている。生計を立てるため、沿岸水域で漁をしたり、畑でココナツ、バナナ、プラカを栽培したりしている。

そのような平和的な暮らし方が2000年以上続いたが、今、そこは消滅の危機にある。何らかの理由により、すべての島がゆっくりと、しかし着実に海へと沈みつつある。地表から姿を消しつつあるのである。



2月から4月まで、島では満潮時に奇妙なことが起こる。1日に2回、地面の小さな穴から海水が湧き出してくるのである。これはこの島の土がさんご礁の堆積物でできていて、水がこうした堆積物を簡単に通過するためである。その結果、潮が満ちると、土地はスポンジみたいに海水で満たされるのである。

こういうことが島のいくつかの場所で起こっている。下の写真を見てほしい。普段は広場に水はないが、潮が満ちると水たまりができ始める。水たまりはどんどん大きくなって他の水たまりと合体する。たちまち広い土地は海水でいっぱいになる。海水は場所によっては50センチかそれ以上まで上がり、海水が引くのに数日かかることもある。

ある男が言った。「約10年前までは井戸水を飲んでいたものだが、今では飲めない。井戸水は農業にも使えない。井戸水は塩分が多すぎる。今では井戸の中で海ガニが生きている。」プラカの畑を指差しながら彼はため息をついた。「プラカを栽培するのはあきらめなければならない。プラカは一度根が海水につかると生きられない。ここで栽培するのはただの時間の無駄だ。」

他の多くの野菜を栽培するのも難しくなった。その結果、ツバルは外国から持ち込まれる食べ物に頼らざるを得なくなった。彼らは伝統的な生活様式を失い始めていた。



ツバルが海に囲まれているという事実は、かつてはツバル人にとって恩恵だったが、今ではその同じ海が彼らのすみかと生活様式をまさに奪おうとしている。海岸沿いにヤシの木の生えた多くの砂浜があって、そこはかつて子供たちが集まって遊んだ場所だった。そんな場所はもう存在しない。満潮と強風が、かつて岸沿いに並んでいたヤシの木だけでなくほとんどすべての砂地も侵食してきた。

「私たちは死ぬまでこの国にいるつもりです。」ある年配の女性が言った。「たとえ海の下に沈んでも、この島を去るつもりはありません。子供たちは出ていかなければならないかもしれない。新しい場所で幸せに暮らしてほしい。でも私は今いる場所にとどまるつもりです。ここが私の家なのです。」



この小さな島国が直面していることは、単なる局地的な問題ではなく、また地球規模的な問題でもある。日々の人間の活動─特に先進国での─が地球温暖化と大きく関わっている。毎日、化石燃料やごみなどといったものが燃やされることによって大量の温室効果ガスが生み出されている。このことが地球温暖化を加速させており、それが極地の氷を溶かして海水面を上昇させていると多くの科学者は考える。

ある報告書は海水面が今後100年間で88センチも上昇するかもしれないことを明らかにしている。ツバルだけが海水面の上昇による影響を受ける国なのではない。もし海水面が上昇し続ければ、日本の海岸線も含め、他の多くのより大きな国の海岸線もまた海の下に沈むだろう。/


PROVISION Ⅱlesson1

プロビジョンⅡ lesson1

Go Armstrong! ─いけ!アームストロング─





“どんな障害もチャンスに変えろ、どんなマイナスもプラスに変えろ。”母はこのルールをもって私を育て、そしてそうやって私は生きてきた。

私の育ったテキサスの小さな町では、フットボールをしなければひとかどの人間にはなれなかった。私はフットボール選手になろうとしたが下手だった。そこで他の何かを見つけたいと思った。

私は子供のころ義父とうまくいってなくて、それが私をいらいらさせた。しかしこの問題を乗り越えるチャンスを与えてくれることが起こった。初めて自転車に出会ったのである。私は自転車に引き付けられ、こう考えた。「もし自転車に乗ってこの道をずっと遠くへ行ったら、どこかここよりもっといい場所にいけるんじゃないか。」と。

雨でも晴れでも私は自転車のペダルをこぎ続けた。13歳のとき、若いサイクリストのためのトライアスロンで優勝した。その後まもなく別なトライアスロンでも優勝した。私はアメリカトップのジュニアサイクリストでいる気分が好きだった。こうして私の自転車生活が始まったのだった。



1990年、18歳のときに日本の宇都宮でのレースで、サイクリストとして海外デビューを果たした。私は強靭なライダーだったが、戦術はまずかった。レース半ばでバテないよう、スタミナをもっと効率的に使う必要があった。ベストを尽くしたが、11位に終わった。

1993年、私はオスロで開かれた世界選手権で優勝した。私のレース技術はよくなっていたが、まだ改善する必要があった。

私が初めてツール・ド・フランスに参加したのは1995年だった。私はサイクリストにとって世界でもっともきついレースに参加するのに成功したが、優勝するにはまだ不十分だった。

けれどもツール・ド・フランスのあと、私は選手生活のピークにさしかかっていると感じた。世界最高のライダーの一人として、私は邸宅、素敵なスポーツカー、そして銀行に貯めた財産があった。いつも順風満帆にいくと思っていた。

その後、人生最大の障害が訪れた。「がんですね。」という言葉を聞いたとき“恐怖”という言葉の本当の意味がはっきりと分かった。この恐怖に比べたら、それまで味わってきた恐怖など何でもなかった。「肺と脳にがんがあります。」医師がいった。私の生存確率は40パーセントだった。まだ25歳。もっと生きていたかった。

3回手術をし、その後に長くて痛い一連の化学療法が続いた。いつも痛みがあって嘔吐し続けた。治療は病気そのものと同じくらい、いやもっとひどいと思った。これがまる4ヶ月も続いた。



私は奇跡的にがんに打ち勝った。問題は選手生活に戻るべきかどうかだった。長くてつらい科学治療のせいで筋肉はすべてそぎ落ち、とても弱りすぎていて何もできないような気がした。

自転車に乗るのはもはや無理だと思った。「アームストロングは終わった。もう二度とレースしないだろう。」私はプロのサイクリニストとしてのキャリアを断念することを考えた。

時間のほとんどをゴルフをし、テレビを見てすごしたが、面白くなかった。幸せも自由も感じなかった。そんな折、コーチが私に会いに来た。彼はガレージで私の自転車を見て、私が自転車に乗っていなかったことを知った。

「せっかく生き返ったんだから、充実した人生に戻らなくてはだめだ。」彼は言った。そしてアパラチア山脈でトレーニングキャンプをやらないかと勧めてきた。私は準備万端というわけではなかった。しかしそこは前にレースで2度、優勝した場所だった。再スタートを切るのに悪くない。いくらか時間をかけ、また自転車に乗る決心をした。

毎日毎日何時間もペダルを踏んだ。ある日、雨の中、坂を登っていると、道路に書かれた白と黄色の文字が目に留まった。“Viva Lance”と書いてあったのだが、それは前回のレースで私を見た観客が書いたものだった。登り続けるにつれ、車輪の下に雨で消えかけた文字がもっと見えてきた。“Go Armstrong”。私は自分の人生がどう運命付けられているのか分かり始めた。単純に、私の人生は長くて険しい登り坂ということだ。私は自分がしなくてはならないことを悟った。それはツールで優勝することだ。



私は1999年のツールに挑戦するまで、すべてを犠牲にして厳しいトレーニングに専念した。私が優勝すると思った人はほとんどいなかった。レース前半、私はスタミナを温存し、後方につけていた。レース中盤になって先頭に立つと、そのまま先頭を維持した。走っているあいだ自転車が体の下で左右に揺らぎ、私は息を弾ませた。3週間以上続くレースのスタミナ配分を考えながら、来る日も来る日も自転車に乗り続けた。疲れきっていたが走り続けた。最後の6キロに入ると、持てるすべてを尽くしてペダルをこぎ続けた。フィニッシュラインを切ったとき、時計は最も競り合っている相手より私のほうが9秒早いことを示していた。私はツールで優勝したのである!



以前、「ランスはフランスの山や丘を飛び上がっていった」と書いてある新聞記事を読んだことがある。しかし丘を飛び上がっていくことは決してできない。のろのろじりじり四苦八苦しながら丘を登り、もし本当にがんばったのであれば、もしかしたら頂上にたどり着けるかもしれない。人生は障害に満ちている。その障害をチャンスに変えるかどうかは君次第だ。/


2008年6月13日 (金)

PRO-VISIONⅡ lesson7

プロビジョンⅡ lesson7

World Englishes

1780年、ジョン・アダムズは言った。「19世紀および20世紀以降、英語は先の時代のラテン語、現在のフランス語より広く世界の言語になる運命にある。」彼が正しいと判明するまで200年近くかかった。

世界で英語を使う人の数に関する正確な統計は存在しない。けれども、10億人以上の人々が英語を話すといわれている。何人かの専門家によると、15億の人々が何らかの形で英語を使い、そのうち4億人が母語として使い、一方残りの人々は第二言語あるいは外国語として使う。“10億”という数字自体は、たとえば中国語やスペイン語と比べたら特に驚くには当たらない。それにもかかわらず、地球上に存在する3,000とも5,000とも言われる言語のうち、英語だけが唯一“世界語”と呼べる言語であるという事実は言及するに値する。今のところ、世界の言語の地図における英語の地位はきわめて独特である。

英語は現在の立場を維持するだろうか?それともその世界的地位は他の言語に脅かされるだろうか?1,000年前、ラテン語の支配的地位は永遠に保証されているように思われた。しかしどんな言語であれ1,000年後にその立場がどうなっているかなど誰も知りようがない。言語の地位は政治や軍事、経済、文化的要因と密接に関連しており、それらの要因が変化すれば言語も浮き沈みする。一部の専門家にはアラビア語、中国語、スペイン語が次の世界語となるのも想像に難くない。実際、現在スペイン語は世界でもっとも急増している母語である。けれども私たちの世代に他の言語が世界的役割を果たしている英語に取って代わることはなさそうである。それとたとえ英語が現在の立場を維持したとしても、必ずしも英語が言語的性質を今のまま保持するということにはならない。事実、英語は今、ルネサンス以降これまでにない速さで変化している。

世界にいる英語の使い手を比率として見たとき、英語のネイティブの話し手の総数は実際減っている。そうなっているのは、英語を母語とする国々と英語を第二言語あるいは外国語とする国々との人数の差が開きつつあるからである。現在、英語の話し手の4人のうち3人は非ネイティブである。英語を第二言語・外国語とする話し手の数が増えて国際的に存在感を得るにつれ、“three person”や“many informations”、“he be running”というようなかつては“異質”とか“誤り”とされた語法もいつかは標準話法の一部となるかもしれないし、ゆくゆくは標準書体にさえ現れるだろう。

多くの人々が自分の地域共同体で英語を使うようになったらどうなるか?彼らは独自の“一つの英語”を生み出す。事実、今、インドやシンガポール、ガーナのような世界中の国々で発達している多様な口語英語がある。それらは“New Englishes”と呼ばれてきている。中にはいろいろな場所で話される多様な英語を指すために“World Englishes”という表現を使う人もいる。“World Englishes”という概念がより一般化しているので、母語としての英語と第二言語・外国語としての英語の区別はあまり重要ではなくなってきている。

ここで固有名詞“English”が複数形の-sを受け取り、“Englishes”となっていること注目するのは重要である。“World Englishes”という用語はanimalsvegetablesのような集合名詞として機能する。World Englishesのカテゴリーには日本英語、アメリカ英語、スペイン英語、韓国英語が一員として含まれる。World Englishsの基本的な要点は、英語はもはやネイティブだけのものではなく世界中の人々に共有される世界的財産であるということ、そして英語の規範は地域的にではなく世界的に決められるべきだということである。これはつまり英語の使い手がみな英語の未来にかかわりを持つということである。だから現在、英語を学んだと言えば、それは英語の使い手の一員としての権利を持つということを意味する。また英語のたどる未来はネイティブによるのと同じくらい、第二言語・外国語としての英語の使い手によって影響されるだろうということもまったくありそうである。

語学学習者はこれらのWorld Englishesに直面しているだろうし、そして彼らは学習に焦点を合わせた自国の規範英語のみならず、世界標準の英語の感覚も身に付けるだろう。だがイギリス英語、アメリカ英語、その他の多様な英語が選択可能とされる中で、英語学習者が世界標準の英語からスタートするようになるまでそう何年もかからないかも知れない。

英語はこれまで国境を越えて世界規模で広まってきた。結果、英語は多様化して“Englishes”となった。中にはあまり多様化すると分かりにくくなると心配する人もいる。しかし英語の地位におけるこの変化をよしとするか否かは、英語をどう定義するかによる。もし英語をアメリカや英国やカナダのような特定の国家に属する一国際語でしかないと考えるのであれば、英語のあまりの変化に保守的な思いを持つだろう。他方で、もし英語を世界中の人々で共有する世界語として考えるなら、英語の未来の地位について心配するよりはむしろより肯定的に思い、関心を持つだろう。

この問題に関して肯定的に思うもっともな理由がある。というのは言語というのは基本的に妥協のための方法であり、そこにおいて相互理解のために意味の果てしない交渉が行われるからである。これは対面している状況のみならず、インターネットのような他の形式のコミュニケーションにも当てはまる。この情報技術および経済国際化の時代において、人々はどこにいようと自分を理解させるために自分なりの英語を使うことを求められている。それゆえ、Englishesは実際に妥協の方法として使われていることは認めなければならないし、このことを否定的にとらえる必要はない。この新しい方法に加えて、まったく新しい標準が作り出され、国境を越えたコミュニケーションをより意味のあるものにするかもしれない。私たちは今もこれからも世界語として英語を使うのだから、“World Englishes”をもっとよく認識すべきである。/


2008年6月 6日 (金)

PRO-VISIONⅡ lesson6

プロビジョンⅡ lesson6

A Man Who Saved the World

2003223日、香港発の飛行機がまさにハノイに着陸しようとしていた。乗客の一人、中国系アメリカ人のビジネスマンが少し熱を出していた。世界にまだ知られていないウィルスが彼の体内で暴れているとは誰も知らなかった。実はこのビジネスマンはSARSと呼ばれる感染症を発生させベトナム中を大混乱に陥れようとしていた。飛行機はハノイに着陸しこのビジネスマンは町へと姿を消した。

医師のカルロ・ウルバニはイタリアの小さな町で生まれた。町の病院で働いているあいだ、ウルバニはMSFの一員としてしばしばアフリカに行き、貧困の子供たちを診療した。陽気で気さくで、彼は周囲の患者や人々に人気があった。2000年、ウルバニは妻と3人の子供と一緒にWHOの感染症専門家としてベトナムに行った。

ウルバニがハノイのフレンチホスピタルから電話を受けたのは200333日の昼ごろだった。医師がウルバニに、「香港から来た観光客が今、重体に陥っています。彼のどこが悪いか分かりません。診察に来てくれるとありがたいです。」と言って助けを求めた。

ウルバニが診察に駆けつけると患者は呼吸困難に陥っていた。男は40度近い高熱を出し、顔や腕、足は紫色になっていた。彼は30分以上も苦しがって咳をし続けていた。

これがウルバニの病気との闘いの始まりだった。あらゆる検査をしたにもかかわらず、彼は病気の原因を突き止められなかった。「これはインフルエンザとして知られているものとは違う。」ウルバニは言った。「これが何なのか突き止めなければならない。」

ウルバニはこの患者が中国の広東の人と接触したのではないだろうかと考えた。そこの人々が “謎の肺炎”が発生したためパニックになったと聞いたことがあったのだ。しかしこの患者が感染者の近くにいたかどうか確信を持つ者はいなかった。ウルバニと同僚たちにできることはせいぜい病気の蔓延を観察し、それをメールでWHOに報告することだけだった。

35日、その患者の世話をしていたナースが倒れた。ひどい頭痛と筋肉痛で彼女は動けなくなった。その後、もう1名のナースが似た症状を呈して勤務中に倒れた。間もなくさらに多くのナースが体調不良を訴え始めた。

ウルバニと同僚は病気の蔓延を防ごうと全力を尽くしたが、そうした努力はまったく役に立たなかった。38日までに、病院の職員をしていてその病気にかかった人々は17人にのぼった。病院の隔離病棟は痛みと高熱に苦しむ人々のうめき声で満ちた。感染していない医師や看護師がほとんどいなかったので、病院ができることはほんのわずかしかなかった。おまけに彼らを治療する医療設備も効果的な薬もなかった。

ウルバニは見つけたことやテスト済みのサンプルを記録し、病気を阻止する手段を何とか見つけ出そうとした。彼は患者が見せた症状を細部にわたって記録した。来る日も来る日も彼はWHOの人々にメールでデータを送り続け、この病院で起こっていることを世界中に知らせるよう頼んだ。

ウルバニはまたWHOに備品や助っ人をよこすよう頼んだ。けれども観光業への悪影響を懸念して、ベトナム政府はWHOとウルバニに協力したがらなかった。ウルバニの頼みは断られた。

病院は患者を隔離病棟に入れ、職員を除いて誰もそこには入れなかった。ウルバニは患者を見舞うのを決してやめなかった。彼らは枕元に座って希望を与えようとした。「このウィルスに効く薬はまだありません。しかし永久に生きるウィルスはありません。しばらくすれば死ぬでしょう。」ウルバニは言った。「私がいつも一緒についています。心を強く持ってください。」患者の一人は思い出す。「世界中の人が私たちに見切りを付けたが、ウルバニ医師は違った。彼は私たちを大いに勇気付けてくれた。」けれどウルバニはこのとき自分の体内で何が起こっているか知らなかった。ウィルスは彼の体内でも急速に増えていた。

311日、ウルバニが待っていたWHOの感染症専門家がハノイに到着した。その専門家、押谷医師はウルバニのボスだった。病院を案内した後、ウルバニは突然押谷に聞いた。「もしあなたがこの病気になったらどうしますか?」押谷は答えた。「一番いいのはハノイを出て適切な治療を受けられる所に行くことでしょう。しかし医師として、病気を蔓延させないのが一番正しい行動だと思います。私ならここにとどまるでしょう。」彼は続けた。「しかし家族のいる身としてはそれも自信がない。」

その夜、ウルバニはそっとハノイを出発してバンコクに行き、そこで感染症専門の病院で治療を受けた。今や彼自身が患者だったのである。

312日、WHOは全世界に向けて警告を出したが、こんなのは創設以来初めてのことだった。ベトナムの病院でどんなに早くウィルスが広まったか、このSARSがどんなに速くほとんど呼吸ができなくなる最終段階に達するかがそれには詳しく述べられていた。ウルバニが命を犠牲にして彼らに送り続けたものは、きわめて重要な情報となった。その時から、病気の蔓延を防ぐために世界中でさまざまな手段が取られるようになった。

327日、ウルバニはSARSで重態になった。2日後、彼は妻に看取られながら死んだ。ハノイで初めて病気の観光客を目にしてから27日後のことだった。享年46歳。8月、WHOSARSの制圧宣言を公式に発表した。

ウルバニの訃報に押谷は涙を流した。「もし彼と同じ立場にいたとしたら、私は彼と同じことはできなかったと思います。」押谷は言った。「彼はあの状況下で自分が最善と信じることをしたのだと思います。彼が患者に献身したのはその例です。」

もしウルバニが発生の早い段階でウィルスを発見していなければ、SARSはもっと多くの人々を殺していただろう。専門家によると犠牲者数は100万に達していたかもしれないとのことである。

1999年、ノーベル賞がMSFに贈られたとき、ウルバニはイタリアのマスコミにこう言った。「世界中の病気の人に可能な限り最高の治療を施したいというのが私の希望です。それを実現するためには私は2つのことを続けています。1つは患者のそばについていること、もう1つはいかなる障害にも決して屈しないことです。」/


2008年5月26日 (月)

PRO-VISIONⅡ lesson5

プロビジョンⅡ lesson5

The Beech Tree ─ブナの木─

メアリー・ルーが学校から帰ってくると、お父さんが何か新しいことをしていた。テーブルに大きな紙を敷いて、定規と鉛筆でそれに線を引いていた。

「何してるの?」彼女は聞いた。

「ある物を作る。」お父さんの返事は別な質問を要した。

「おもちゃのお家?」メアリー・ルーはずっとおもちゃのお家を欲しがっていたし、お父さんは大工だったので、彼が彼女におもちゃのお家を作るのは難しくないだろう。

「家の上に部屋を一つ作るんだ。」お父さんは今度こそは答えを明かし始めた。「おじいちゃんが同居しに来る。」

メアリー・ルーはこの知らせを聞いてとても興奮したので、お母さんを見つけに二階に行った。彼女はメアリー・ルーの赤ちゃんの弟を抱きながら、揺り椅子に座っていた。

「お母さん、おじいちゃんが同居しに来るんだって。すごくない?」

「ここにいて幸せになれればいいけど。」お母さんが低い声で言った。

「何で幸せになれないかもしれないの?」メアリー・ルーは聞いた。

「それはね、おじいちゃんがとても年を取っているからよ。」お母さんが言った。

数ヶ月しておじいちゃんが同居しに来た。メアリー・ルーはそれまでより幾分幸せに感じたが、理由ははっきりとは分からなかった。おじいちゃんは時として厄介者になった。骨が痛めばまともに歩くこともできなかった。ベッドでじっとしていなければならない日さえあり、そんな時はお母さんが食事を祖父の部屋に運ばなくてはならなかった。服に物をこぼすこともあって、それもお母さんの仕事になった。

それでも足の調子がよくてメアリー・ルーと一緒に散歩ができるほどの日もあった。そうしたある日、メアリー・ルーは聞いた。「走れなくて残念?」

「まさか。」おじいちゃんが言った。「わしがお前ぐらいのときはどこに行くにも走ったものじゃよ。わしにも走る番があった。今度はお前の番じゃ。お前がわしみたいに年を取ったら他の子らの番じゃ。」

メアリー・ルーは歩きを止めた。自分が年を取りすぎて走り回れなくなると考えると少し怖くなった。

「気にならなくなるじゃろうて。」おじいちゃんが言った。「昼と夜がさっと過ぎてしまうように年月も過ぎる。お前はそれにとんと気付かんじゃろうが。」

「うん。」メアリー・ルーは厳かに言った。「それでおじいちゃんは死んじゃうの?」

「どっちとは言い切れん。」おじいちゃんが言った。

歩くうちに二人は梢が枯れている大きなブナの木のある野原の外れにやって来た。夏に近所の子供たちがその木の木陰でよく遊んでいるので、メアリー・ルーはその木をよく知っていた。

「あの古いブナを見なさい。」おじいちゃんが杖で指しながら言った。「何が見える、メアリー・ルー?」

「古い木。それと周りに生えている小さな木。」

「よろしい。あれらの小さな木がどこから来たか知っとるか?」それからおじいちゃんは質問に答えた。「彼らはあのブナから来たんじゃよ。あの古い木は自分の時間がもう尽きようとしていることを知っとる。だから根っこに命じて小さな新しい木を作らせたんじゃ。最初は、新しい木は古い木の根っこから水分をもらっておる。だがやがて小さな木は自分の根っこを下ろし始める。古い木が死ぬ頃には、小さな木はもう古い木を必要とはせなんだ。それでも、もし古い木がなかったら小さな木は生きとりゃせん。古い木は小さな木の中で生き続けるんじゃ。」

メアリー・ルーは話を全部理解するのに少し苦労したが、一つ聞きたい気分だった。「子供は好き?」

おじいちゃんは何も言わなかったが、顔に笑みが広がった。

その日の夜、お母さんとお父さんの奇妙な会話が開いた窓を通してたまたまメアリー・ルーの耳に届いた。

「ドナルド。」お母さんが言った。「お義父さまを養護施設に預けることも考えるべきだと思うわ。家にお年寄りがいると子供たちによくないと思うの。お義父さまは弱ってきているし、それを見たら子供たちも悲しむでしょ。」

お父さんが耳慣れない声で言った。「マリアン、君の気持ちが分かる。だから僕としてはその考えに反対できない。正直、父さんは君の負担になっているんだろうな。」

メアリー・ルーは信じられなかった。どうしておじいちゃんのせいで私が悲しむなんて考えられるんだろう。いつの間にか目に涙があふれていた。でも考えるのをやめることはできなかった。たぶんお母さんはおじいちゃんの世話をするのに飽きたんだ。だとしたら、じゃあ…。メアリー・ルーはこう独り言を言った。「私が何とかしなきゃ。」

彼女はガバッと起き上がり、部屋を抜け出して忍び足でおじいちゃんの部屋に入った。

「おじいちゃん、私、おじいちゃんに出て行って欲しくない。」彼女は出し抜けに言った。「おじいちゃんのために何でもするって決めたの。服に何かこぼしたら洗濯するとか。」

おじいちゃんはこれを聞いて驚いた。けれどここ数日間の会話や出来事を整理し、何とか全貌をつかんだ。

「そんなに助けようとしてくれるなんて、お前は優しい子じゃ、メアリー・ルー。」おじいちゃんが言った。「でも分かるじゃろうが、わしがどこかよそへ行くのがいい考えかもしれないというのは認めざるをえんし、そこのほうがわしに向いているかもしれん。そうすればお前もお前の母さんも手間が省けるしのう。」

「でも小さな木は古いブナと一緒に生きているんだよ!」メアリー・ルーは言い返した。「小さな木は古いブナを追い払ったりしない!」

「静かに。」彼が言った。「木は人間じゃないぞ。」

これを聞いてメアリー・ルーは泣き始めた。彼女はおじいちゃんの枕元にひざまずき、祖父は彼女の髪をなでた。しばらくして彼が言った。「わしのことなら心配いらん。お前とはお別れじゃが、いつでも会いに来なさい。」

「行っちゃだめ。行かせない。」メアリー・ルーは言い張った。

「ありがとう、一緒にいたいなんて言ってくれて。」おじいちゃんが言った。「なんて優しい子なんじゃ。でも今夜はもう遅い。もう戻って寝なさい。おやすみ、メアリー・ルー。」

次の日、学校から帰って来ると、メアリー・ルーはお父さんがおじいちゃんの荷物入れを用意しているのに気付いた。これを見て彼女はきっぱり言った。「おじいちゃんは行かないよ!」

「何?どうして知ってるんだ?メアリー・ルー?」お父さんが驚いて言った。

お母さんがこれを聞いてキッチンから出てきて言った。「でもおじいちゃんが行きたいって言っているのよ。もうその話は済んだの。」

「うそ。」メアリー・ルーは泣き出しながら言った。「うそ、うそ!」

「何なの、あなたは!」お母さんも大きな声を出さずにはいられなかった。

メアリー・ルーは二人にすべてを話した。「昨日の夜、話しているのを聞いちゃったんだ。おじいちゃんのせいで私たちが悲しむなんてそんなのうそ。私はおじいちゃんにずっと一緒にいて欲しい。」彼女は続けた。「それに私たちは大きなブナと小さな木について話をしたんだよ。」

「この子は何のことを言っているの?」お母さんが言った。「大きなブナ?」

それでメアリー・ルーはお母さんとお父さんを古いブナの木まで連れて行った。

「ほら、これ。」メアリー・ルーは説明を始めた。「あの古いブナはおじいちゃんで、周りの小さい木は私たち。小さな木は古い木を追い払ったりしないんだよ。」

お母さんは何て答えていいのか分からなかった。

「お母さん。」メアリー・ルーはじれったそうに言った。「いつかお母さんが年を取ったら私に追い出されたい?」

「いいや。」お母さんが考え込みながら言った。「いいや、それは嫌だわ。」

「じゃあ、私がおじいちゃんのことどう思っているか分かるでしょ!」メアリー・ルーは言った。「お願い、おじいちゃんを追い出さないで。おじいちゃんの世話なら何でもするから。」

「メアリー・ルーの言おうとしていることにも一理あるようだな。」お父さんが言った。

「まあ、彼女がそう感じているなら。」お母さんが言った。「そうね、私が完全に間違っていたわ。」

そんなふうにして事態は収まった。三人が家に着くとすぐにお母さんはおじいちゃんに言った。「どうか一緒にいてくださいな。私たちで話したのですが、お義父さまにいなくなられてはやっぱり困ります。」

おじいちゃんは驚いて見上げた。「じゃが、わしは…」彼は言い始めた。

メアリー・ルーは言った。「どうかお願い、一緒にいて。」

おじいちゃんは家族の生き生きとした顔に囲まれて、あの古い木になったような気がした。そして彼は一つはっきりと分かった。これでいいのだと。/


2008年5月 8日 (木)

PRO-VISIONⅡ lesson4

プロビジョンⅡ lesson4

The World of Moomintroll  ─ムーミントロールの世界─

児童文学の有名な作品がアニメを通じて世間に広く知られてきた。アニメ映画になった児童文学の有名な一例がムーミンである。このアニメは日本ではヒット作で、ヨーロッパの数カ国のテレビで放映された。このアニメのかわいい顔をしたキャラクターを見たことのある日本人は多いが、ムーミンの世界について本当はどれほど知っているだろうか?

日本の学生100人の調査で、次の質問が聞かれた。

1)ムーミンのことを何か知っていますか?

2)もとの話はどこから来たか知っていますか?

3)ムーミンの話にどんな印象を受けますか?

学生100人中、9割近くの学生が“はい”と答えたが、その4分の1しかその話の生まれた場所を知らなかった。3番目の質問に対する答えで、学生はかわいい、暗い、幸せ、楽しい、まじめ、やさしい、自分勝手などさまざまな印象を述べた。そのようないろいろな印象を持った理由は何だと思うだろうか?

ムーミン(彼の元の名前はムーミトロール)はフィンランド人の作家であり画家でもあるトーベ・ヤンソンによって生み出された。彼女は一連のムーミントロールの本を書いた。彼女の第1作目の『小さなトロールと大きな洪水』は第2次世界大戦直後に出版された。最初、それはフィンランドの新聞販売所でだけ売られたが、しばらくしてそのキャラクターが多くのフィンランド人の人気を得始め、その後26年以上トーベは話を書き続け、他の8冊のムーミンの本のイラストを描いた。

“ムーミントロール”という一風変わった名前はトーベのおじによって作り出された。彼はよく、“ムーミントロール”という目に見えない生き物が家のストーブの後ろに潜んでいると言って彼女を怖がらせたものだった。彼女が何か悪いことをしたとき、彼は彼女に「ムーミントロールが出てくるぞ!」と言ったものだった。

ムーミントロールの姿は、トーベが小さい女の子だったとき壁に描いた落書きしたキャラクターから来ていた。それは大きな鼻と長いしっぽを持ったぽっちゃりした生き物だった。トーベは成長する間このキャラクターを描き続けた。

20代のとき、戦争が始まった。戦争中、トーベは戦争に反対していた雑誌の表紙のイラストを描く仕事をしていたので、フィンランド政府は彼女の作品を発禁処分にした。彼女は描く意欲を失った。「この世界が混沌としているときは絵は何の意味も持たないように感じた。」彼女は言った。「私の身の周りのすべて物が色褪せていった。」

周囲の世界に落胆したので、トーベは彼女の新しい想像の世界を作り上げていった。彼女は子供時代の幸せな日々を思い出し、穏やかで平和な雰囲気を持った場所を見つけようとした。この場所がムーミン谷、ムーミントロールという名前の生き物とその友達が住む緑の木々に覆われた谷だった。「実を言うと、戦争中にそんな話を書くことは私にとって一種の現実逃避だった。」トーベは言った。

トーベの空想の世界はフィンランドの、果てしない緑の森と青い湖でいっぱいの土地の美しい自然を反映している。ムーミン谷では北欧のように夏は短く冬は長い。秋の終わり、冬のあいだ冬眠するためにムーミントロールと彼の家族は松葉をしっかり食べる。谷の生活は浮き沈みに満ちている。時おり洪水や竜巻、火山の噴火に見舞われる。物語のキャラクターたちは自然の脅威だけでなく難しい個人的な問題にも対処しなければならない。このことがムーミントロールシリーズを他の児童文学とは異なるものにしている。あるエピソードはこう進む。

ニニという名前の若い女の子が、おばがいつも意地悪なことばかり言うので自信をなくしている。彼女はとてもしょげてしまい、透明人間になってしまう。運のいいことに、彼女はムーミントロールの一家に出会う機会に恵まれる。彼らは彼女を歓迎し、やさしくもてなす。彼らの優しさに感動し、顔を取り戻すのに若干時間がかかったものの、彼女は次第にまた目に見えるようになる。ムーミントロールの小さくても強情な友達のちびのミイは彼女に言う。「闘うことを覚えるまで絶対顔は取り戻せないわよ。」

顔を取り戻すため、ニニは自信を得る必要があった。ある日、ムーミンパパがからかってムーミンママを海に突き落とそうとする。ニニはムーミンパパがムーミンママを傷つけようといているのだと考える。彼女は怒ってしっぽに噛み付いてムーミンパパを止める。彼女の顔が現れ始めたのはまさにこの瞬間である。大事なムーミンママを救うことによってニニは、彼女はこの時まで決して誰にも敢然と立ち向かうことはなかったのだが、顔を取り戻すことができる。ニニはムーミンパパに立ち向かったことで彼女は自信を得ることになる。

このエピソードが示すように、トーベは空想の物語を通じて人間の問題について取り組んだ。もしムーミントロールの世界に足を踏み入れれば、ムーミン谷の住人たちもあなたが自分の生活で直面するのと同様の問題を抱えていることが分かるだろう。だから読者は、キャラクターと物語を楽しむ一方で同時に人生についての教訓を学ぶことができる。空想の形態がいろいろな人々が彼女の物語の中に個人的メッセージを見つけることを可能にするのである。

トーベはムーミン谷の世界を作り出すことによって現実から逃避したいのだと言った。しかし実は、彼女は現実から逃げてはいなかった。そうではなく、彼女は現実に創造的に対処していたのであり、そうすることによって彼女は世界中の多くの子供たちを喜ばせてきた。「子供たちが自分が私の空想世界の中に入り込んでいるのに気付き、私の物語を記憶にとどめているのをみると、私はとても幸せを感じます。」トーベは言った。

35を超える言語に訳されているので、ムーミン谷の物語は世界中の人々の心を魅了してきた。ムーミントロールの世界は楽しいときだけでなくつらいときも人々を楽しませ、人生を輝かせるのである。/


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