2008年11月23日 (日)

UNICORNⅡ lesson9

ユニコンⅡ lesson9
The Younger Days of Patch Adams


私が16歳のとき父が急死した。父と2人きりで1週間すごした直後のことだった。母と弟が旅行で留守にしていて、そのとき父が私に突然アルバイトを数日休んでくれと頼んだ。私が成長期にあったとき、彼はほとんど家におらず、家にいるときはたいていいすに座ってお酒を飲んでいた。父が参加した戦争について話して欲しいと頼むといつも彼は泣き始めるのだった。
第2次世界大戦と朝鮮戦争が父の精神を破壊した。朝鮮戦争中、彼の無二の友が手りゅう弾に覆いかぶさり父の命を救った。父はそのことでひどく罪の意識を感じていた。しかし一番の罪の意識は家族に対するものだった。父はよい父ではなかったことを私に謝った。
やっと父と仲良くなった矢先、彼を失った。彼は心臓病と高血圧を患って第2次世界大戦から帰ってきた。私たちが父と子としてやっと仲良くなった1961年のその週末、彼は心臓発作を起こした。

父の死の2、3ヵ月後、私はまだ大きな喪失感に苦しんでいた。胃が痛み始めたのは高校の最終学年の間のことだった。エックス線検査で胃潰瘍だと分かった。その年、2回入院した。
大学に入ってまもなく、高校の恋人のダナと分かれた。さらに私にとって新しい父親のようになっていたおじが自殺した。
すべての希望を失い、自殺することも考えた。母の助言で精神病院に入院した。そこに2週間いたことが人生の転機となった。
私の回復を一番助けてくれた人々は医師ではなく家族や友人、同室者のルーディだった。ルーディは3度離婚し15の職を転々とした。彼の人生は失敗と絶望に満ちていた。私にはよく見舞い客が訪れたが、ルーディに会いに来る者は誰もいなかった。人がそんなに深い孤独を経験することがあるとは想像もしなかった。私の苦痛など彼の苦痛に比べれば何でもないように思えた。
愛に囲まれていたのに、心を十分に開いてそれを受け入れてこなかったことに気付いたのはそのときだった。それは私の個人的な真実だった。

退院後、人を助ける職業に就きたがっている自分に気付いた。医療の職に決めた。3年間の医学部進学過程を経て、1967年にバージニア医科大学に入学した。
私をアメリカの医療制度に直面させたのは医大の研修だった。患者の健康状態に注意を集中させろと医師は言った。私は各患者の性格や生活習慣もよく把握しておくこともまた重要ではないかと考えた。私は患者と仲良く話をするのが好きで、よく冗談を言い合った。このことで私を非難する医師もいた。彼らは医師と患者との間に「職業上の距離」を置くべきだと言った。そのせいで教室にも病院にもほとんど喜びがなかった。この制度を変えたかった。
医療がさらにビジネス化していることも大きな問題だった。多くの医師は患者に高額で不必要なことも多い検査を受けるように言い、多くの種類の薬を処方する。そのせいで健康保険の費用がかさみ、今では3,000万人以上のアメリカ人が払えない。

医療制度は危機的状態にある。費用は抑制がきかず、医師と患者の関係が深刻な問題になっている。将来的にこの状況が改善されるのかどうか疑わしい。私はこれらの問題が互いに密接に関連していることに気付いた。相手の気持ちを理解するという優れた医療の本質的な部分が利益と同じくらい重要であるということはほとんど聞かれなかった。
最終学年中にいろいろ経験してこれらの問題を痛感し、将来的に強く影響された。研修の一環として貧しい人々のための無料診療所で働くことを選んだ。これこそ待ち望んでいた機会だった。やっと友情とユーモアのある自分のやり方で医療を実践できた。ある日、赤いゴムの鼻をつけて仕事をした。うれしいことに、簡単に患者と親交や信頼を築くことができた。利益を主たる目的とせずに人を助ける。自分が働きたいのはこんな雰囲気なのだと実感した。もし医療を改善する考えを持っているなら自分で実行すべきだと悟った。

1971年に卒業したあと、私は少数の友人たちとバージニア州のアーリントンの小さな町でクリニックを開いた。その後数年間、クリニックは何度も移転した。最初の数年は私たち全員にとって実験だった。患者を診察するとき、何時間もかけて家族や友人、仕事、趣味を知るようにした。診療に対して支払いを求めたことは一度もなかった。
1979年、「ゲズンハイト・インスティテュート」という名前を案出したが、これはドイツ語で良い健康という意味である。翌年、ウェストバージニアの美しい田園地帯に310エーカーの土地を購入した。ここでなら、私たちの夢が本当に現実のものとなるだろう。
幸福な、楽しみや愛に満ちた共同体を作り出すことができた。私たちのようなホームスタイルの病院や診療所はどこの誰でも無料で利用できるのが当然だろう。こうした環境でなければ患者は私たちの「健康とはたんに病気ではないというだけではない」という哲学を理解できないだろう。それは栄養、運動、趣味、自然、驚嘆、創造性、奉仕、平和だ。個人の健康をその家族や社会や世界の健康と切り離すことはできない。ようするに健康は幸福に基づいているのである。/


UNICORNⅡ lesson8

ユニコンⅡ lesson8

The Future of Cloning

君はクローン化のことを聞いたことがあるし、クローン化についての新聞記事を読んだことがあるし、おそらくクローン化が一要素を演じる12本のSF映画を見たことがあるだろう。ではクローンとは何か?簡単に言えば、それはオリジナルとまったく同じDNAを持つ、別の生体の複製のことである。

クローン化は何も目新しいものではない。自然が何百万年ものあいだ行ってきたことである。イチゴやジャガイモのような植物が匍匐茎を伸ばすと、その匍匐茎が根付く場所ならどこでも新しい植物が育つ。新しい植物の11つがオリジナルの植物のクローンである。

ある種の動物は自分のクローンを作れる。ヒドラと呼ばれる小さな水生動物は、オリジナルから小部分を分離させて自分のクローンを作れる。その小部分はオリジナルとまったく同じ遺伝物質を持った新しいヒドラへと成長する。

特殊なケースでは、ある種の昆虫や虫、トカゲ、魚、カエルのようなより高等な動物は未受精卵から成体になることができる。成長した動物の各個体は母の遺伝物質のみを持ち、父の遺伝物質は何も持っていない。

たいていの人はクローンヒツジのドリーのことを聞いたことがある。100年前だったら科学者は誰一人としてドリーを作れなかっただろう。しかし、動物のクローン化はドリーから始まったのではない。1902年、ドイツ人科学者のハンス・シュペーマンは1本の髪の毛を使ってサンショウウオの2細胞期の胚を分割した。2つの細胞のそれぞれがサンショウウオの完全な成体となったが、それぞれはオリジナルの胚のクローンだった。もしこのプロセスが自然界で起こっていたら、私たちはそれを双子と呼ぶだろう。

1952年、ロバート・ブリッグズとトーマス・キングという2人の科学者は、1匹のカエルの細胞から核を取り除き、それを、すでに核を取り除いてある別のカエルの卵細胞に入れた。その結末はクローンのカエルだった。

入れられた核は胚のプログラムされていない細胞から取られた。プログラムされていない細胞は、たとえば骨や血液、心臓、腎臓など、どんな種類の細胞にもなることができる。ブリッグズとキングは成体の細胞ではなく胚の核だけがクローンを作るのに使うことができると考えた。彼らは、傷を覆う新しい皮膚を育てるようプログラムされている皮膚細胞のような成体の細胞はまったく同じ型の新しい細胞しか作り出せないと考えた。

一般の人々にとっては、ブリッグズとキング、そしてその他の科学者のクローン実験はぜんぜん行われなかったかのようだった。新聞でもほとんど報道されなかった。

しかしドリーという名のヒツジがクローンで作られたとき、世界中で(新聞の)第1面の見出しになった。哺乳動物がうまくクローンで作られたなら、それが暗示するものは明白だった。「ヒツジのクローンが作れるなら人間のクローンも作れるはず。」

科学者は、乳の中に人間に役立てられるタンパク質─たとえばインスリンなど─を作り出せるよう、遺伝子が組み換えられたヒツジやその他の家畜を欲しがった。

道のりは簡単ではなかった。科学者は成体の細胞、すなわちプログラムされた細胞が必要だった。彼らはどうにかしてプログラムされた細胞の中のDNAを「だます」か「プログラムし直す」かして、プログラムされていない細胞のように働かせなければならなかった。彼らは276回クローンを作ろうとしたが、毎回のように失敗した。277回目の試みで彼らは成功した。

ドリーがクローンで作られて以来、科学者はウシやブタ、ネコ、その他の動物のクローンを作ってきた。けれどもこの困難なプロセスはまだ先が長かった。たとえばクローンで作られた動物は体がとても病弱であることが多かった。20032月、ドリーは重い病気を患ったあと安楽死させられた。彼女はわずか6歳だった。

クローン化は将来、人間に大いに役立てられる技術だと信じる人々は多い。植物の科学的クローン化を支持する人々は、それは自然環境だけでなく人間にも消費者にとっても多くの利益があると言う。たとえばそれは食料を増産させ、健康によい植物を作り出すことができる。高品質の植物のクローンを作ることは、食料植物をより簡単に栽培でき、それにより虫や病気に抵抗力のある作物が手に入れられるということを意味する。そうすることで、多くの食料を第3世界諸国の貧しい人々により供給することができる。

科学者は理論的目的のために動物のクローンを作るわけではない。彼らは現実世界の、実用的目標を考慮している。その実用的目標を達成するためには、クローンだけでなく生命工学も使う必要がある。

たとえば、科学者はいつかブタをクローンで作り、人間に使うためにそのブタの臓器を摘出することができるようになることを願っている。しかしそれが起こるためには、その臓器が移植先の人体に拒絶反応が出ないようブタの特定の遺伝子を無力化するため、生命工学を使わなければならない。これらの遺伝子を停止させたあと、ブタからクローンが作られ、その臓器が人間の移植に使われるだろう。いずれにしろこれは理論上の話である。

クローン化の未来を心配する人もいる。彼らは、各科学者が自分の研究の結果をよく考えることが重要だと言う。けれども植物のクローン化の危険性を警告する人々も、クローン化を禁止したいとは思っていない。園芸をする人なら誰でも知っているように、植物のクローン化は何世紀にもわたってずっと行われてきた。むしろ、彼らはクローン化が生命工学と混合されたとき引き起こされる危険性に集中する。たとえば、クローン化は病気や虫に対する抵抗力を低下させるかもしれない。ほんのわずかな食用作物しか栽培しなかったら、そしてそれらがクローンだったら、たった1つの病気や虫で大量の作物がだめになり、飢饉をもたらすこともある。もし作物の遺伝子にもっと多様性があれば、同じ病気にはかかりにくいだろう。

動物のクローン化もまた危険を引き起こすかもしれない。危険の1つは新しい病気が発生することである。AIDSSARSのようなごく新しい出現しつつある病気の多くはウィルスが種の壁を飛び越えたとき、いいかえれば、もとは動物のものだったウィルスが人にうつったとき引き起こされる。クローンで作られた動物の臓器が人間に移植されるとしたら、それが新しい致命的な病気を発生させるかもしれないと心配する人もいる。/


2008年7月 6日 (日)

UNICORNⅡ lesson7

ユニコンⅡ lesson7

The Lesson of Easter Island

イースター島は地球上で人が住む最遠隔地の1つである。長さ22キロ、幅11キロしかなく、南アメリカから3,200キロ、人が住む一番近い島から2,000キロ離れた太平洋上にある。

1722年の復活祭の日に最初のヨーロッパ人がやって来た。彼らは島のあちこちで、その多くが高さ6メートルを超える600体以上の巨大な石像を見つけて驚いた。問題は誰が、なぜその石像を造ったかということである。島民自身はその答えを知らなかった。それゆえイースター島は“謎の島”として有名になり、その歴史を説明するためいくつかの仮説が立てられた。

1人の有名な科学者、ノルウェイのヘイエルダールは、この島に住んだ最初の人々は南アメリカの出身だったと考えた。彼らは偉大なインカ族のものと似た彫刻や石造物の伝統を持ち込んだ。その後、他の民族が西方からやってきて、それがもとでやがてイースター島の複雑な社会を破壊する戦争が始まった。1950年ごろ書かれた彼の学説はありえることのように思えるが、他の考古学者に一般的に受け入れられることは決してなかった。

多くの考古学者は5世紀ごろ最初にこの島にやって来た人々はポリネシア人だったと考えている。もとのポリネシア人は東南アジアから来た。

イースター島にやってきて、彼らは環境が厳しいことを知った。問題は真水があまりなく、気温がかなり高く、土地は彼らの主食であるタロイモやヤムイモを栽培するのに栽培するのに適していなかったことである。彼らは食用にサツマイモとニワトリしか育てられないことを知った。この質素な食事の唯一の利点はサツマイモの栽培とニワトリの飼育はかなり簡単だったことで、そのため他の活動をするたくさんの時間が残った。さまざまな島の氏族のあいだで大きな式典や儀式が発展した。このような資源のあまりない小さな島の割には世界でも最も複雑な社会が作り出された。氏族の過去の首長をあがめるためといったようなほとんどの式典は海岸近くに造られた大きな石壇である300あるアフの1つで行われた。

それぞれのアフに1体から15体の巨大な石像が設置された。石像はラノ・ララクの採石場で彫られた。最大の問題はどうやって島を横断してアフまで石像を移動させたかである。これをなしえたであろう唯一の方法は、まず地面に木を並べ、それから採石場からアフまで木の上を滑らす方法によってだったようである。これは多くの数の木を必要としたに違いない。

近年の科学調査により、最初に人が定住したとき、イースター島には多くの草木があったことが分かってきた。人口が増加するにつれ、イモを栽培する場所を確保したり暖房や炊事用の木材を調達したりするなどといったことのため木が伐採されたのだろう。しかし最大の需要は島で多数の石像を移動させることだった。

それぞれの氏族はおそらく権力と地位を誇示するためより多くの石像を欲しがった。彼らがより多くの石像を造ろうと互いに競い合い始めるにつれ、ますます多くの木が必要とされた。その結果、1600年までには島に木がほとんど残っておらず、いくつかの石像をまだ採石場に残したまま石像造りは終わった。

島から木がなくなったことによって島民の日常生活に大きな変化が起きた。建築に利用可能な木がなかった。人々は洞窟や簡単なアシの住居に住み始めた。

1つの疑問は、彼らがそのとき陥っていた困難な状況から逃げだすことができたのかどうかということである。けれども材木がなかったのでもはやカヌーは作れず、長旅には適さないアシの舟だけしか作れなかった。また材木は手に入らず、網は服を作るのにも使われていたクワの木からできていたので、漁はさらに困難になった。

木を伐採することは土にも大いに影響した。木がなかったので、いい土は大雨のあいだに押し流された。そのため食物を栽培するのがより難しくなった。入手できる食物が減ったので、7,000人の人々を養うのが不可能になり、人口が減少した。

1,600年のあと、かつては複雑だったイースター島の社会はどんどん原始的になった。カヌーがなかったので、島民は自らが招いた環境破壊のせいで遠隔地の住処から逃げだす手段を持たなかった。

残った食物をめぐり氏族間で戦争が始まった。しまいに人々は共食いを始めた。

なぜ島民は生き延びるのに必要な森を破壊したのだろうか?これは重要な質問である。イースター島の没落は島民によって引き起こされたのではなく、近隣の敵対する社会かあるいは干ばつやエルニーニョ現象のような気候の変化に襲われた結果として起こったのではないかと提唱されてきた。けれどもイースター島社会が築かれたあと、イースター島社会と接触した敵や味方がいたという証拠がない。それに今のところ大きな気候の変化があったという証拠もない。

島民が森や環境を破壊することで自らの運命をもたらしたという可能性が非常に高いようである。

イースター島と現代世界の類似点はきわめて明白である。グローバル化や国際貿易、飛行機、インターネットのせいで、ちょうどイースター島の数十の氏族がそうであったように、現在の地球上のすべての国々は資源を共有し、互いに影響しあっている。イースター島は宇宙の中の地球のように大西洋に孤立している。イースター島の島民は苦境に陥ったとき、どこにも逃げることができる場所がなかった。同じことが今日の私たちにも当てはまる。

しかし私たちの状況はある重要な一点で違っている。もし島民が石器や己の筋肉のみで自然環境を破壊したというのなら、質問は私たちが強力な道具や機械でどんな損害をもたらすだろうかということである。/


2008年6月 7日 (土)

UNICORNⅡ lesson6

ユニコンⅡ lesson6

Lone Vote –the life of Jeannette Rankin ─たった一人の投票─

“議長、私は今日、重い心で立ちます。…9.11は世界を変えました。今は最悪の恐怖が頭から離れません。それでも私は、軍事行動はアメリカに対するさらなる国際テロを防ぐことはないだろうと確信しています。”

これはカリフォルニアの下院議員バーバラ・リーの行った演説の一部である。ただ一人の勇気ある行動を取って、彼女は下院を4201、上院を980で通過したある決議で反対の1票を投じた。その決議はアメリカ大統領に2001911日の攻撃に関係した者には誰であれ“必要なあらゆる武力”を行使する権限を与えるものだった。投票後、女性議員のリーは多くの怒った人々に脅迫された。彼女の身の安全のため、しばらくボディーガードを付ける必要があった。

メディアの関係者の中には、国際貿易センタービルへの攻撃を、1941127日の日本の真珠湾攻撃にたとえる人もいた。そして彼らはある一人の女性の名─ジャネット・ランキンを思い出した。

日本の攻撃の後、議員は開戦に賛成か反対かの票を投じた。その投票でも上院下院の471人中たった一人の反対者、終生の平和主義者であり女性同権論者だったジャネット・ランキンがいた。投票する前、ランキンは他の議員による乱暴で感情的な演説を聞いた。アメリカ人は奇襲攻撃を見て怒っていた。議員たちが考えている唯一のことはいつ日本と戦争を始めるかということだった。戦争熱が上院下院を支配した。しかしこのことはランキンに影響しなかった。20年以上にわたって彼女は世界平和のために懸命に働いていた。彼女は戦争は間違っているということを明らかにしたかった。

彼女はゆっくり立ち上がり言った。「女性なので私は戦争に行けません。ですから他の誰であっても行かせるのを拒否します。」彼女が“ノー”の投票をした瞬間、議場にいた数人の議員が彼女をののしった。彼女は“弱い女”とか“アメリカの恥”呼ばわりされた。議場を出ると廊下は怒った人々で一杯だった。彼らは「投票を変えろ!」と叫びながら彼女に群がった。

実際、ランキンが宣戦布告に反対票を投じたのはこれが初めてではなかった。19148月、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発した。これはすさまじい戦争で、かなりの期間、ほとんどのアメリカ人がアメリカはヨーロッパの戦争に関わるべきではないと感じた。

その後19154月、ドイツは英国を行き来するいかなる船舶も攻撃すると発表した。同年5月、客船ルシタニア号が攻撃された。アメリカ人を含む1,200人近い人々が死んだ。世論は戦争で英国やフランスを助ける方向に変わり始めた。2年後、191742日にウィルソン大統領は議会に宣戦布告を要請した。

投票前、ジャネットは黙って座っていた。それから彼女は立ち上がって前の席を握りしめた。ついに彼女は視線を上げ、静かに言った。「私は自分の国は支持したいのですが、戦争に賛成票は投じられません。反対票を投じます。」

他の49人の議員が彼女に同調して“ノー”と言ったが、彼女が明らかに最も批判された。新聞は彼女が投票中に泣いたと偽って報道した。人々は彼女の決心は弱さから来ていると、そして彼女は非国民だと考えた。

ジャネット・ランキンは1880年にモンタナで生まれた。父のジョンは牧場主で、母のオリビアは元教師だった。当時モンタナでは、多くの地域より生活が困難だった。男性も女性もつらい野良仕事の多くを平等にやっていた。しかし男性と女性は多くの点で平等ではなかった。たとえば選挙のとき、女性は投票を許されていなかった。

1902年に大学を卒業したあと、ランキンは貧しい人々のためのソーシャルワーカーになった。1910年、シアトルに住んでいたとき、彼女は女性の選挙権を求めるグループに出会った。彼女は彼らの運動に関わるようになった。何ヶ月か懸命に取り組んだ後、ワシントン州で女性が選挙権を獲得した。

モンタナに戻ったとき、彼女は女性が選挙権を獲得できるようにとモンタナ中で演説した。ランキンや他の人の長年の努力のおかげでモンタナの女性は1914年にやっと選挙を許された。

ランキンはこうした出来事に励まされた。彼女は女性と子供の福祉のために働きたいと考え、議会に立候補することにした。女性だったので、彼女が選ばれるかどうかは疑わしかった。けれども1916年、ジャネット・ランキンは連邦議会に選ばれた最初の女性になった。

ジャネット・ランキンは2度、戦争に反対票を投じた。2度とも多くの人々が彼女を非難したが、中には彼女の勇気を称賛する人もいた。

彼女が1941年に“ノー”を投じたとき、一人の人が彼女に手紙を書いた。「あなたの小さな1票は闇夜の中で明るい星のように際立ちました。」

ある新聞もまた彼女を支持し、こう書いた。「100年経ったら人々はジャネット・ランキンの真の勇気を理解するだろう。彼女は戦争は間違っているという自分の信念を少しも曲げようとしなかった。」

2次世界大戦後、ランキンは平和のために働き続けた。彼女は世界中で演説した。1968年、彼女はベトナム戦争に反対するデモで5,000人もの女性の先頭に立った。

晩年、彼女は“ノー”を投じたことを後悔しているかどうか聞かれた。「まさか。」彼女は答えた。「戦争に反対ならば、何があっても反対なのです。」1973年の死の少し前、ジャネットは友人に言った。「私は世界平和のためにできることはすべてしたと分かっているだけで、もうこの世を去ることができる。」

現在、連邦議事堂にはジャネット・ランキンの像がある。台座には彼女の言葉がある。“戦争に賛成票は投じられない”/


2008年5月28日 (水)

UNICORNⅡ lesson5

ユニコンⅡ lesson5

A Tour of The Brain  ─脳ツアー─

男性と女性の脳は違う。けれども新しい研究はどちらが何が得意かについての古い通念を変える。男性と女性の適性の違いに関する最新の科学は何だろうか?男性の方が女性より科学と数学が得意というのは本当だろうか?生活環境や動機付け、機会の方が性別より重要だと考えている科学者が多い現在にそんな質問をするのはばかげているだろうか?

新しい医学の技術のおかげで、今では研究者は脳が働き成長するところを撮影することができる。この話題で有名な研究者であるサンドラ・ウィッテルソンは言う。「近年、男性と女性の脳の違いを発見してきた研究の数が増えてきています。とても興奮します。」

こうした違いの多くは私たちの行動を変えないようであるということが分かっている。他に私たちが思いもよらなかった方法で変えるものもある。

男性と女性の脳にどんな違いを発見しようとも、ほとんどの科学者はさまざまな研究分野の成果だけでなく、生物学的要因や社会的条件も人間の行動において役割を果たしているということについて意見が一致している。

ほとんどの研究は男性の脳のほうが女性の脳より約10パーセント大きいということで一致している。しかしかつて考えられてはそう考えられていたが、大きさで知能を予測することはできない。男性も女性も知能テストでは同様に成し遂げた。

けれども彼らの脳の働き方には違いがあることが分かる。男性と女性が数学の問題を解くことや本を読むことといったような課題を与えられると、女性はその課題を仕上げるために脳のいろいろな部分を一緒に使う傾向がある。一方、男性は課題に応じて脳の一つの領域だけを使う、あるいは一つの領域を集中して使う傾向がある。男性と女性が怒りや悲しみを経験するときもこれと同じパターンが起こる。

その上、男性と女性の脳の発達の仕方にも違いが見られる。脳のほとんどの領域において女子のほうが早く成熟する。特に言葉を話す、文字を書く、顔を見分ける領域は女子のほうが数年早く成熟する。特定の領域では男子のほうが早く成熟する。特に機械的思考、視覚的対象物の捕捉、空間的思考は男子のほうが48年早く成熟する。

しかししばらくして脳が完全に発達すると、男女間の適性の違いはそこまで違わなくなる。試験した時期によるのである。

けれどもなお答えるべきいくつかの疑問がある。たとえば、平均して男子と男性のほうが頭の中で三次元の物体を回転させるのが得意なのはなぜだろうか?女子と女性に関して言えば、なぜ彼らのほうが言葉遣いや社交術がうまい傾向があるのだろうか?もっとも驚くべき違いは脳の外側かもしれない。

「もし男性と女性に同じ風景を見させたら、彼らはまったく違うものを見ています。」内科医で精神分析医であるレナード・サックスは言う。「女性は男性が見ることのできない色や質感を見ることができます。女性は男性が聞くことのできない音を聞くことができ、男性が感じることのできない匂いを感じることができます。」目、耳、鼻は、脳につながる出入り口であるが、誕生時からずっと脳の発達に影響を与える。しかしだからといって女性のほうが男性より知覚が優れているわけではないとサックスは言う。人間は現実の度合いにおいて多様性を持っていることを意味し、人間が生き延びる可能性を高めている。「女性はある植物の色や質感を覚え、もしそれが毒を持っていたら人々に警告することができる。男性はその辺で動いているものにより注意を怠らないのです。」彼は言う。「どちらがいいか?両方必要です。」

1990年代の初め、サックスはADHDを患っている男子を評価し、確かに彼らは学校で注意が散漫であることを知った。しかし脳の違いを研究すればするほど、問題は学校にあるとますます確信するようになった。解決法が簡単なこともあった。彼は耳が女子ほどよくない男子を前列の席に移動させた。他に解決法がもっと難しいこともあった。

「以前は私は男女別の学校は時代遅れだと考えていました。」彼は言う。しかし、男子と女子をあたかも脳が同時に成熟するかのようにして教える男女共学は効果があるというよりむしろ害になると結論を下した。「子供たちに年齢や性別にふさわしくないことをするよう頼むといつでも彼らはその課題を失敗するか嫌いになるかするでしょう。」彼は言う。「12歳になるまでに、科学が嫌いな女子と読書が嫌いな男子が出てくるでしょう。もし性差を考慮することが有効だと分かれば、それを実行する方法は確かにたくさんあるでしょう。」

人々が性差が何であるのか理解し、得意分野に従って行動し、苦手な点に気付いていればずっといいでしょう。」サンドラ・ウィッテルソンは言う。

研究が示してきたように、機械的思考に使われる脳の領域は男子のほうが早く成熟するように思われる。それゆえ、一般的に言えば、若い女子はより若いときは科学や数学を学ぶのに不利かもしれない。

しかし、刺激され励まされる時はいつでも若い女性もかなり科学が得意になる証拠はたくさんある。現在、アイスランドとスウェーデンでは、女子のほうが男子より数学と科学が成績がよい。スウェーデンでは、北部の地域でその差は一番大きい。「女性ははるか南の大都市に行きたがるが、そこでは技術職に就くために競争しなければならないからかもしれません。」デンマーク人の教授は言う。「男性は地元の狩猟や漁、林業の機会に集中します。」

8年生の女子が男子より数学の成績がよく、男子のほうが成績がよかったのはわずか3カ国しかなかったという調査をどう説明できるだろうか?答えを見つけるのは難しいだろうが、あるアイルランド人の先生が言うように「性別間で違いはあるかもしれないが、断然最も重要なことは適性ではなく動機付けです。」それはまた期待、励まし、そしてなにより個人の努力に関するものかもしれない。/


2008年5月22日 (木)

UNICORNⅡ for reading

ユニコンⅡ for reading

The Christmas Angel  ─クリスマスの天使─

暑いビーチの上で過ごすクリスマス。これよりすてきなものを考えられますか?

1226日の午前、100人ほどの人たちが日光浴をしていました。空には雲一つありませんでした。

水着の肩ひもの下を伝ううっとおしい汗を感じながら寝そべっていると、その時、風向きが急に変わりました。私は何かに気がつきました。ビーチが急にとても静かになったのです。人々はさっきまでしゃべっていたのに、今はしゃべるのをやめていました。弟のジャックは空の貝殻に向かって楽しそうにしゃべっていましたが、彼さえ静かになりました。

私は手をかざして、彼がぽかんと口を開けて海の向こうを見る視線をたどりました。

最初、私は自分が見ているものが信じられませんでした。ビーチが消えてしまったのかと思ったのです。それからビーチがそれまでより大きくなっただけだと気付きました。ビーチがそれまでより10倍も大きくなっていました。海水が岸から引き、驚くべき速さで水平線に向かってどっと後退していました。しばらくの間、ビーチにいた人たちは誰もしゃべりませんでした。みんな畏敬の念に打たれていました。多くの海の生き物がビーチに現れました。熱帯魚は空気を求めて口をぱくぱくさせながらピチピチはね、カニや貝は隠れる場所を探して砂の上をせわしなくあちこち動き回りました。

誰もが後退していく海水に魅入られていました。お母さんは他の数人の大人と一緒になってぬれてきらきら光る砂浜を数歩下りていきました。誰も特に心配してなさそうでした。

私が前に見た、数年前にパプアニューギニアを襲った身震いする映画の一場面を映しているドキュメンタリーを思い出したのはその時でした。それはちょうどこんな風に、海水がとても速く後退していく場面から始まっていました。

わずかな間、これが映画の中の災害にどれほど似ているかにあまりに呆然となりました。それからすぐ私は口がきけるようになり、きしるような声で「津波、津波。」と言いました。ジャックは私を見て笑い、聞きなれない言葉を繰り返しました。お父さんは「何だって?」とつぶやきましたが、彼はちゃんと聞いてはいませんでした。お母さんは海のほうへあまりに遠く行ってしまったので、私の声が聞こえませんでした。私は立ち上がってお母さんに戻ってくるよう叫びました。

「どうしたの?」目の上に手をかざし、なおも海のほうをじっと見つめながら彼女は聞きました。

「ビーチから離れなきゃだめ。」私は叫びました。「津波よ。」

彼女は首を振って、お父さんなら私が何をわめいているのか分かるかのように彼を見つめました。彼は困惑して肩をすくめました。

「逃げなきゃだめなの。」私はできる限り大きな声で言った。声が届く範囲内にいる大人たちはみんな、誰らの中の誰かがビーチにいるむきになっている女の子が何にそんなにあわてふためいているのか説明することを期待して、眉をひそめておどおどとお互い顔を見合わせました。

「海面が上昇しているの!岸から逃げなきゃだめ!」私は声を限りに叫んでいました。それでも誰も動きませんでした。大人たちは自分が知らないことを子供の私が知っているはずないと思っていました。沖合をちらっと見て、ビーチに近づいてくる遠くの波を指差しました。ツナミという日本語は誰も理解できませんでした。「タイダル・ウェーブ」私はきしるような声で言いました。「タイダル・ウェーブ。タイダル・ウェーブ。」

今度は彼らは理解しました。彼らはタイダル・ウェーブが何を意味するか知っていました。同時にはるか沖のヨットが急に激しくひっくり返りました。まるで海全体が水中から飛び出してくるかのように見えました。ほとんどの人がそのまま根が生えたようにその場で動けなくなっていましたが、お母さんは違いました。お母さんは一言だけ発しました。私は彼女のその言い方を決して忘れないと思います。叫び声のように出てきて、一瞬、私は体がすくみました。

「走って!」

お母さんはジャックを肩にしっかりかついで、私の手首をつかむと全速力でビーチから逃げました。背後では、近くにいた人たちに逃げろと叫びましたが、通じませんでした。命がけで走るどころか、みんなはナプキンやタオルをしまったり、ドリンクを飲み干したりしていました。

私たちはホテルのプールに急いで戻ると、お父さんは息を切らして従業員に何が起ころうとしているのか説明しました。すると従業員は、波が人々を殺すかもしれないと分かって、ビーチに走っていき、できる限りの大声でみんなにホテルへ戻るよう叫びました。

第一波がビーチを襲ったのは、最後の一人がホテルにたどり着いたわずか数秒後でした。私は波を見るのがどれほど恐ろしいか説明し始めることができません。それは波がとても大きかったからではなく─高さはジャックの背の二倍くらいしかありませんでした─とても速かったからです。水の壁が沖合で泡だと思ったら、次の瞬間、波がビーチを襲っていました。波はドーンと、爆弾の爆発のような信じられないほどの音を立てました。後で知ったことなのですが、波は時速約800マイル、ジェット機以上のスピードで岸を襲ったのでした。ビーチで起こったことを見てすぐ、そこに残された人がいたら誰であれ死んでいただろうということが分かりました。砂浜から運ばれてきた重いテーブルがビルに激突しました。木々が、それも小さな潅木ではなく成熟した大木がプールに投げ込まれました。乗用車やバンが陸の奥まで流されました。

大きな岩や木々やボートを運びながら波は陸の奥まで流れていきました。後になって、ホテルの外に住んでいた多くの地元住民は第一波を切り抜けたものの命を守るためにしがみつくものが何も見つけられなくて波が引くとき結局海へと流されてしまったと知りました。

私たちは第一波が陸の奥まで押し寄せるのを見ていました。すると波は急に、動物が海へと戻っていくように後退しながら、ほとんど流れ込んできたのと同じ速さで引いていきました。

第二波は私たちめがけて押し寄せてくるとき第一波とほぼ同じ速さでしたが、もっと大きくて、家ぐらいの高さがありました。私たちに何ができたでしょうか?何もできませんでした。私たちは互いに手をしっかり握り、この建物が壊れないようにと祈りました。

波が壁を直撃し壁の周囲を流れると、爆発音がしました。第二波が引き、私たちは安堵のため息をつきましたが、まだ終わりではありませんでした。それからの二時間半、第一波より大きな波が私たちの周囲で延々と轟音を立てて砕けました。

眼下では、見渡す限り、ありとあらゆるものが完全に平らになっていました。私たちのいるホテルを除く建物はすべてなくなってしまっていました。いくつかの鉄のはりや電柱は別として、まだ立っているものはほとんど何もありませんでした。どの木も、どの潅木も、どの乗り物も、どの家も、破壊されていました。

後に、しばらく私のことを“クリスマスの天使”と呼ぶ大人の人もいました。しかし私がその呼び名を決して好きになれなかった理由をこれでお分かりいただけたと思います。私は天使ではありません。いくつかの命を救った情報をたまたま知っていただけです。もしあなたが知っていたら、あなただって私と同じ事をしていたでしょう。

家に帰ったとき、あの日タイでどれほど大勢の人が死んだか知りました。幼い子供たちが死にました。波が襲ったとき、力が足りなくて何かにつかまることができなかったからです。しかし年上の子供たちや親たちも、死ななくてよかったのに死にました。自分の命を救うことならできたはずですが、年下の子供たちを救おうとして死んだのです。この物語はそうした天使たちのためのものなのです。/


2008年5月16日 (金)

UNICORNⅡ lesson4

ユニコンⅡ lesson4

Fashion - A Reflection of the Times -  ─ファッション:時代の反映

1950年代

この写真を見て欲しい。このドレスが1947年に発表されたと信じられるだろうか?“ニュールック”と呼ばれるこのスタイルはフランスのクリスチャン・ディオールがデザインした。このドレスは高価な生地を使ったフレアスカート、ぴったりしたウェスト、ノーパッドのナチュラルショルダーを持っていた。

戦争中、人々は慎重にお金を使わなければならなかった。彼らの着る服にはこの心配が表れている。ほとんどのスタイルは似通っていて、あまり意匠を凝らさず地味で質素だった。これらの服は安くて普段着として実用的だった。

戦後、女性はファッションの新たな変化を切望した。これがディオールの“ニュールック”がたちまち人気を博した理由の一つである。それを見て女性たちはファッションの美しさと豪華さを思い出した。ニュールックは女性のファッションに革命を起こし始め、パリをファッションの世界の中心地として確固たるものにした。

ディオールはファッションを劇的に変えた。それはファッションの歴史の新しい出発点だったと言える。

1960年代

1960年代は変化と反抗の時代だった。アフリカでは多くの植民地が独立した。アメリカでは公民権運動によってようやく黒人が少し自由になった。ベトナム反戦運動もたくさん起こった。若者はこれらの運動だけでなくファッションにおいても重要な役割を果たした。

英国のロックグループのビートルズはこの時代のシンボルだった。彼らの音楽とファッションは新しくて興奮させる何かを表現していた。何百万という若者が、ビートルズの『愛こそすべて』のタイトルを見て分かるように、同じ“新しい希望”を持っていることを示すために彼らのファッションをまねた。ファッションモデルのツィギーもミニスカートを60年代のシンボルにした。ミニスカートとビートルズのファッションは伝統的なやり方に対する若者の反抗を反映していた。

ファッションスタイルが常に変化し続けていることを考えると、現在でもミニスカートが見られるのは面白い。このスタイルは50年近くも出回ってきたのである。

1970年代

この間に“ストリートファッション”が人気になった。若者が集まる地区の通りは新しいファッションの発祥地になった。

ストリートファッションは異なる二つの方法で発展した。一つ目の方法はデザイナーがある一つのストリートファッションを見つけそれを世界中の人気ファッションとして確立させるものだった。マリー・クワントはこの方法の先駆者だった。彼女はロンドンのカーナビーストリートを歩く短いスカートをはいた女の子を観察していた。この短いスカートに触発され、彼女はミニスカートをデザインし、有名なファッションショーで発表した。70年代、多くのデザイナーが彼女の方法に倣った。

二つ目の方法は、通りで他の若者が着ているものを真似ることによって若者たち自身があるファッションを広めるというものだった。これの一つのいい例がヒッピー・ファッションである。ヒッピーは社会の慣習的なやり方の多くを拒絶する若者たちだった。戦争に強く反対していたので、彼らは人々に仲良く平和に暮らすよう促した。彼らの多くは髪を伸ばしてベルボトムのジーンズをはいていた。彼らの“ヒッピースタイル”が世界中で人気になり1970年代の一般のファッション界を席巻した。

1980年代~現在

1980年代に女性の社会的地位が著しく向上した。1979年、マーガレット・サッチャーが英国の首相になった。女性の服はこの新しい“力”を表現した。服は大きな肩パッドと、女性らしさを出す細いウェストも持っていた。要するに、1980年代の女性は“成功のために着る”と言われた。

女性の社会的地位は1990年までには確立されていて、キャリアウーマンは今では一般的で受け入れられている。それに応じ、女物の服と男物の服の境界がはっきりしなくなった。ファッションは男女共通になり、より多様になった。人々はタイトパンツもルーズパンツもはいたし、女性はミニスカートもロングスカートもはいた。

2000年以降、季節ごとの色や傾向など小さな変化を除いては、この傾向はあまり変わっていない。その上、カジュアル服がビジネスの世界でも普通になってきた。たとえばエネルギーを節約して自然環境を保護するのを助けるために、日本の環境省が“クールビズ”スタイルを導入した。2005年夏、多くのサラリーマンがこのカジュアルスタイルを身に着けた。

⑤ファッションは私たちの生活文化を反映する

ファッションは人々のきれいでかっこよくなりたいという願望を反映する。しかしこれがすべてではない。ファッションの歴史を振り返ってみると、ファッションはある期間の文化や芸術、社会的状況と密接に関連していることが分かる。

このことを考えると、ファッションの将来について何が言えるだろうか?社会は以前よりもさまざまなファッションを受け入れ、人それぞれの好みを尊重することに対してより寛容になってきたようだ。これは現代社会の反映であって、現代社会では好みや価値観が一層多様化した。もしそうであるなら、私たちは何が一番はやりかと聞くのはもはや的外れな時代に生きているのかもしれない。

このことは現代のデザイナーの姿勢にも見ることができる。たとえばアメリカのデザイナーのケイト・スペードは、自分が誰なのかとか自信を認識することからスタイルは始まると考える。「スタイルは生き方の一部だと思います。」彼女は言う。「周囲のもの、たとえば本や映画、芸術、音楽、旅行、特に人々などについてよく考えることが重要です。学んだことを適応させることによって、自分なりのスタイルを確立することができるのです。」

「流行を追うのではなく、センスのよい人になってください」という言葉が彼女の考え方をよく示している。/


2008年5月 5日 (月)

UNICORNⅡ lesson3

ユニコンⅡ lesson3

Free the Children  ─子供たちに自由を─

19954月のある朝、僕はいつものように朝食用のテーブルにつき、新聞の漫画を読もうとした。しかし第一面を飛ばすことはなかった。大きな見出しが僕の目を捉えた。“児童労働者の12歳少年、殺害”。ショックだった。12歳。僕とほとんど同い年。とても信じられない話だった。

児童労働者の12歳少年、殺害(パキスタン・イスラマバード発AP電)

4歳から12歳のときまで、イクバル・マシはカーペット工場で強制労働させられた。自由になったあと、彼は児童労働に反対する世界的運動を始めた。日曜日、彼は射殺された。一部の人は彼は活動を止めるよう警告した人物によって殺害されたと考えている。

放課後、僕は図書館に行き児童労働問題について調べた。問題について伝えている新聞記事を見つけた。ある記事は僕より年下で、炭鉱で懸命に働いている子供たちに関するもの。他の記事には花火工場での爆発で死傷した子供たちのことが書いてあった。なぜそんなひどいことを止めさせるために何もなされなかったのだろうか?中流階級の人々の住む地域を通って家へと向かいながら、僕は世界のもう一つの面について考えた。すると僕自身の世界が少し暗くなったように見えた。意気消沈して家に帰った。

数日後、人々に児童労働について知らせるため、僕はクラスメート数人でグループを結成した。僕たちはこのグループを“フリー・ザ・チルドレン”と命名した。数ヶ月のうちに僕たちのグループは強固な基盤を築き上げていた。僕たちには名前と、明確な目標と、事務所(僕の家の小さな一室)があった。フリー・ザ・チルドレンについて知らせる書面を作成した。校長先生の助けを借りて、周辺地域の学校にコピーを送った。

5月下旬、僕たちはある高校のワールドスタディーズの授業で話をして欲しいという要請を受けた。クラスはさまざまな民族的背景を持つ生徒たちでいっぱいであることが分かった。さながら小さな国連だった。グループのメンバーが交代で話した。

「世界には25千万人以上の子供たちが働いています。」僕は生徒たちに話した。「これはアメリカの人口とほとんど同じです。」発表が終わるまでに、僕たちが初めて児童労働について聞いたときとちょうど同じくらい、生徒たちがショックを受けているのが分かった。

話を終えると質問を求めた。一人の生徒が言った。「もしあなたがある国々の児童労働を止めさせたら、経済全体が悪化するかもしれず、そしたら大勢の人が職を失うでしょう。」他の生徒が質問した。「どうして先進国の裕福な人々が発展途上国の貧しい人々に子供の育て方を教えることができるのですか?子供たちは児童労働から解放されたあとどうなるのですか?」たびたび「分かりません。」と言わなくてはならなかった。

僕は答えられなかった質問を一つ一つ書きとめた。僕たちは年上の友人の助けを借り、大学図書館で児童労働に関する多くの資料を読んだ。日ごとに答えが集まり始めた。僕は前に話をしたクラス宛に3ページの手紙を作成した。それはこう始まっていた。「考えさせられる質問をしていただきありがとうございました。僕たちは、あなた方が提起した問題について調べ続け、答えを見つけてきました。もしもっと質問がありましたら喜んでお答えします。」僕たちは知識がカギだと知った。

同年12月、僕は7週間の旅行に出て、バングラディッシュ、タイ、インド、ネパール、パキスタンを訪れた。旅行中、僕は大勢の児童労働者と話をした。イクバルの母にも会った。児童労働に反対するデモや、囚われている子供たちを解放するためのカーペット工場への手入れにも参加した。

カルカッタ滞在中、マザーテレサに会った。これもまた旅行の忘れられないものだ。マザーテレサはとても疲れていたけれど(当時86歳)、彼女は僕に話しをする機会を与えてくれた。

「僕たちは子供たちの生活と、いったいどうしたら彼らを助けられるのかについて知るためにここに来ました。」僕は言った。

「いいことです。」彼女が言った。「貧しい人々はあなたに多くのことを教えてくれるでしょう。」

彼女は僕の手を握りしめ、僕の目を覗きこんだ。僕たちはアジアへの旅行について少しのあいだ話した。部屋を出て行くとき、彼女が僕に言った。「神がその仕事をするあなたを助けお守りくださいますように。私たちはお祈りのときに世界の働いている子供たちのことを思い出すでしょう。」僕は励まされたと感じた。

南アジアへの旅行は僕を永遠に変えた。貧困は想像していた以上にひどかった。南アジアの苦しむ子供たちの記憶は忘れない。使用済みの注射器の選別をする幼い少女の顔。祖父が借りた金を返済するために働いているのだと語ったレンガ工場の少年の目。極度の貧困に圧倒されることもあった。しかし、何百万人もの子供たちが暴力的で危険な状況で強制的に働かされているという事実から目を背けてはならない。出会った子供たち全員の苦しみの言葉を世界に広く伝えようと思う。世界の市民として、僕たちはお互いに対して責任がある。イクバルの記事を読んで以来、僕には行動への呼びかけが聞こえ続けている。その呼びかけが僕を前へと突き動かしてきた。これは世界中で人々に人権を求めて闘う気にさせるのと同じ行動への呼びかけだと僕は信じている。

変化は僕たち一人一人の内部で始まり、子供たちが自由に子供でいられるまで終わることはないだろう。/


UNICORNⅡ lesson2

ユニコンⅡ lesson2

Sleeping with Lions  ─ライオンと眠る─

ちょうど日が昇り始めたところだった。私は寝袋の中にいてまだ半分眠っていた。不意に動物が近づいてくる音が聞こえた。私はゆっくり頭を上げて足の向こうを見た。1頭のメスライオンが近づいてきていた。妻のディーリアを起こしたかったが、怖くて動けなかった。というのも私たちは今、カラハリ砂漠の広々とした原野にいたからである。

そのライオンは私たちのそばを通りすぎて10フィート離れた茂みまで歩いていき、大きなオスライオンの隣に横たわった。ディーリアはすっかり目を覚まして私に「マーク、あの足の傷を見て。あれはボーンズじゃないかしら?」とささやいた。そう、あれは私たちがボーンズと名付けたライオンだった。何年か前、彼の折れた足に外科手術を施したことがあった。

頭をめぐらせると、全部で9頭のライオンが周りで眠っているのが見えた。私たちは野生のライオンと寝床を共にしているのだ!カラハリで5年間暮らした後でさえ、それはなお驚くべき、素晴らしい体験だった。

ディーリアと私は野生動物の研究プロジェクトを始めるためアフリカに来ていた動物学の研究家だった。何ヶ月か手ごろな場所を探したあと、ボツワナにある中央アフリカ野生動物保護区を見つけた。私たちはそこが理想的な場所だと判断し、1974年にその保護区内にベースキャンプを設営した。

暑さと水不足のために、中央カラハリ砂漠の大半はまだ調査されていなかった。ベースキャンプの近くに村はなかった。私たちは150キロ離れた小さな町から平原を横切って水を運んでこなければならなかった。アイルランドより広い地域で、私たち2人の小さな研究チームと数グループの現地のアフリカ人だけが唯一の人間だった。

カラハリは私たちにとって暮らしにくい所だった。野生動物にとっても暮らしにくい所だった。彼らは共に平和に暮らしている時もあったが、生き残りをかけて獰猛に闘うこともよくあった。彼らの暮らしぶりを観察したあと、私たちは自然の掟が実際どういうものなのか理解するようになった。カラハリでは私たちはただの招かざる客だった。平原と野生動物をそのままにしておくことは重要なことだった。

初めてボーンズに会ったのはカラハリに来て2年目のことだった。ある日の午後、広々とした平原をドライブしていてたまたま彼を見かけた。彼は数ヶ月前に殺されたと見られるシカの死体に覆いかぶさるように立っていた。死んだ動物の古くて硬い皮を食べようとしていた。

彼はおそらく長いこと食べていなかったのだろう。ゆるい、垂れ下がった皮の下の肋骨がはっきり見えた。

私たちのトラックが近づくと、彼はゆっくり向こうへ歩き始めた。数歩ごとに倒れてはまた立ち上がろうともがいた。ついに彼はばったり倒れ、立ち上がらなかった。まったく動かなかった。彼が死にかけているのは明らかだった。

私はジレンマに直面した。彼の命を救うべきか否か熟考した。私は動物を研究しにカラハリに来ているのであって、決して彼らに干渉するためではないと心の中で思った。しかし後になって彼を助けなかったことを後悔するかもしれないという気もした。しばらくよく考えてから、ついに、できるものなら彼を助けようと決めた。

ライオンの足はひどい怪我をしていた。小さな骨が皮膚から突き出していた。その骨を切除し、傷口を縫い合わせるしかなかった。トラックで彼を木陰に引いていった。

9日間、彼にえさと水を届けた。彼は回復していて、私の存在にも慣れてきた。彼は私が彼を助けようとしていることに感謝しているようだった。9日目の夜、彼がカラハリの奥へと立ち去るときのうなり声で私たちは目を覚ました。

10日後、ボーンズは彼の群れと一緒に戻ってきた。私たちのベースキャンプの近くの木の下に座り、物珍しそうに私たちを見つめた。その後、彼らはよく来て、次第に私たちに慣れてきた。

やがてベースキャンプは彼らの遊び場になった。私たちは彼らと、特にボーンズと親しくなった。時おり彼が群れのために獰猛に闘っているのを見ることもあったが、私たちのテントの外で横になっているときは飼い猫と同じくらいおとなしかった。7年のカラハリ滞在中、親愛なる友ボーンズより私たちと親しくなった者はいなかった。

6年目のカラハリに雨季は来なかった。多くの動物たちが水を求めて動物保護区の端の方へとさまよい歩いた。彼らが心配だった。彼らが保護区の外にいるハンターに殺される危険があった。

かなり長い間ベースキャンプ周辺でライオンを見なかった。ある日、ボーンズが思いがけなく訪ねてきて驚いた。彼に会うのは素晴らしいことだ。

「おはよう、ボーンズ。」私は言った。彼の耳にまだ“001”の番号札が付いているのに気付いた。キャンプの周りで遊び、水を飲みにキッチンを訪れたあと、彼は平原へと立ち去っていった。

2ヶ月経ったがまだ雨は降らなかった。この間、ボーンズを見ることはなかった。ボーンズは大丈夫だろうかと思った。ついに彼を探すことにした。保護区の端に近づいたとき、無線機から友人の声が聞こえてきた。彼は保護区の外の町から連絡していた。

「マーク、ディーリア。こちらはダグ。聞こえますか?」

「ああ、ダグ。マークだ。調子はどうだ?」

「良好。ただ悪い知らせがある。今日ハンターがライオンを射殺したんだ。ライオンに君の番号札が付いていた。」

「番号は・・・何番だ、ダグ?」

001番だ。」/