2008年7月 9日 (水)

VoyagerⅠ lesson8

ヴォイジャーⅠ lesson8

Revive the Mammoth

君は今までジュラシックパークという映画を見たことがあるだろうか?この映画で、絶滅した動物を復活させるためにバイオテクノロジーが使われた。この映画の中の科学者のように、今の現実世界でも絶滅した動物を生き返らせようとしている人々がいる。この夢は実現するだろうか?少なくともそう考える科学者は少なからずいる。彼らはずっと昔に絶滅したマンモスを復活させることは可能だと考える。もし彼らの計画が成功すれば、ジュラシックパークに出てくる動物と同様に、本物の生きているマンモスを見ることができるだろう。

マンモスはかつて北極地方に住んでいた。おそらくそれはシベリアに出現し、それからアイルランドから北アメリカ東部にわたる広い地域に住むようになった。しかし約10,000年前、すべてのマンモスが死んだ。理由は分かっていない。中には絶滅するまで食用に狩られたと言う人もいる。また、大きな気候の変化、あるいは病気によって全滅したという人もいる。

マンモスを復活させるのに、少なくとも2つのバイオテクノロジーに基づく方法がある。1つはクローンを作ることである。イアン・ウィルマット博士はスコットランドの研究センターでこの方法を開発した。彼は羊ドリーをクローンで作った人物として有名である。

もう1つは凍結したマンモスの精子を使ってアジアゾウの卵子に受精させることである。「マンモスから凍結した精子を入手できる可能性があります。」バイオテクノロジーの専門家であるラリー・エイゲンボードは言う。マンモスとアジアゾウではDNAにはわずかな違いしかない。だから、もしマンモスの精子を使ってアジアゾウの卵子を受精させれば、理論上は動物の子供を生み出すことができる。それは半分はマンモス、半分はゾウとなるだろう。このような受精を何度も繰り返せば、最後にはマンモスに非常に近い動物を生み出すことができるだろう。

いくつかのグループの科学者がマンモス復活プロジェクトに取り組んできた。たとえばその1つがフランスの探検家のバーナード・ビーグと彼のチームである。1997年、彼らは新しい技術を使って23,000年のあいだ北極圏の地面に埋まっていたマンモスを掘り出した。それから彼らはヘリでそれをシベリアの小さな町であるハタンガまで研究センターまで運んだ。

科学者が研究センターでしたことは、マンモスの小さな部分を解凍し、手がかり─マンモスの世界について私たちにより多くを教えてくれる手がかりを探すことだった。彼らはまたマンモスからDNAを集め、その遺伝子構造を調べたいと考えた。

マンモスの研究に従事するもう1つのグループが後藤和文教授率いる国際チームだった。このチームには33人の科学者がいた。彼らは日本人、ロシア人、英国人だった。19978月、彼らはマンモスを探す最初の遠征に出た。このとき、彼らはマンモスの骨しか見つけられなかった。彼らは言った。「もし皮膚もあったら、マンモスのDNAを採取できただろうに。」

19998月、後藤教授は26人の日本人とロシア人の科学者で構成された第2のチームと共に再びマンモスを見つけようとした。今回、彼らはマンモスの皮膚を見つけたが、DNAを使えるほどいい状態ではなかった。

日本のプロジェクトは、今度は入谷明教授に率いられ、マンモスを見付けようとし続けた。2002年、彼らはシベリアでもう1体の凍結したマンモスを見つけた。それから取れた肉片は2003年に日本に持ち込まれた。そのDNAも保存状態が悪かったが、チームはプロジェクトをあきらめなかった。

マンモスを復活させるいろいろな試みがどれほどうまくいくのか知るのは難しい。ジュラシックパークがもはや単なるSFではないことは確かである。絶滅した動物を復活させることは今は可能に思われるし、それはバイオテクノロジーにおいて大きな前進となるだろう。

けれども、バイオテクノロジーをそんな風に使っていいのだろうか?これは今も、これからも、現在の社会にとって重要な問題である。

それゆえ、バイオテクノロジーをいかに使うべきかについては開放的で自由な議論がなされなければならない。すべての情報が一般の人々に開かれなくてはいけないし、科学的プロセスは秘密にされていてはいけない。新技術はその潜在的利用法と危険性の両方が知られなくてはいけない。/


2008年7月 6日 (日)

VoyagerⅠ lesson7

ヴォイジャーⅠ lesson7

The Real Hero-Roberto Clemente

「ロベルト・クレメンテの悲劇的な死からほとんど30年近く経とうとしている。彼は今日でも古今を通じて最も偉大な野球選手、人道主義者の1人として思い出される。彼の偉大さに敬意を表し、この特別な日を選ぶこととなった。918日はロベルト・クレメンテの日として知られるようになるだろう。」

1972930日、ピッツバーグ・パイレーツの選手、プエルトリコのロベルト・クレメンテは3000本安打まであとわずかあと1本だった。これほど多くのヒットを放った選手は103年の野球の歴史で他にたった9人しかいなかった。

ピッツバーグの球場で13,000人以上のパイレーツのファンがロベルトの歴史的ヒットを待っていた。ラテンアメリカ中でも、数十万の人々がラジオを聞きながら座っていた。彼らは自分たちの英雄の成功を願っていた。

パイレーツのスターはストレートをはじき返した。球は左中間を深々と破った。ツーベースヒットだった。ファンはとても興奮したが、これがロベルトの最後のヒットになろうとは誰も知らなかった。

レギュラーシーズンが終わったあと、ロベルトはラテンアメリカ一の偉大なスポーツの英雄としてプエルトリコに戻った。彼は球場で偉大な選手であるだけでなく、球場の外ではもっと偉大な人物でもあった。彼は野球によって名声とお金を勝ち取ったが、ラテンアメリカのほとんどの人々が貧しいということを決して忘れることはなかった。彼は常に家族に、自分は自分ほど恵まれなかった人々を助ける義務があると話した。

その年のシーズンオフに、ロベルトは若いプエルトリコ人の野球チームの監督を自ら買って出た。彼と彼のチームがニカラグアのマナグアに滞在しているあいだ、ロベルトはフリオという名前の14歳の少年のことを聞いた。彼は事故で両足を失くしていたが、義足を買うお金がなかった。ロベルトはフリオのために義足を得るよう手配した。ロベルトは彼に会いに行き、また歩けるようになるよと話した。ロベルトがフリオのような人々の手助けをするのはいつものことだった。

ロベルトが家に戻って家族と一緒になった直後の1223日の朝、ニカラグアを大地震が襲った。6,000人以上が死に、20,000以上が負傷した。クリスマスの時期だったが、このひどいニュースを聞くとロベルトはすぐにプエルトリコ人によるニカラグア救援基金を設立した。テレビやラジオで、彼は地震の犠牲者を救うために人々に助けを求めた。彼は救援物資を集めるのにとても一生懸命働いたので、寝食をほとんどすっかり忘れるところだった。

ロベルトは自分のお金を投じて3回の特別飛行便を準備した。特別飛行便はできるだけ速く必要とされる最も重要な物資を運んだ。多くの人々がロベルトはやれることはすべてやったと考えた。

けれども、1231日、マナグアにいる救助隊から緊急のメッセージが来た。彼らはさらなる医薬品やX線装置、赤ん坊のためのさらなるミルクを必要としていた。

状況が悪化しつつあることを知り、ロベルトはそれらの物を自分自身で運ぼうと決心した。彼の友人の多くはそれに反対した。年明けの前夜でもあり、彼らはロベルトに休みを取るべきだと話した。彼らはまた今マナグアに行くのは危険だと話した。唯一利用可能な飛行機はとても古いものだった。

けれどもロベルトは危険を冒すことをためらわなかった。彼が行くのは必要なことだった。「あの人々は私の友人たちだ。私ができることは今夜一緒にいることだ。」ロベルトは言った。「それとフリオは私が来るのを待っている。彼が無事かどうか見に行かなくてはならない。そのうえ向こうでは多くの赤ん坊たちが死に掛けている。彼らはこれらの物資を必要としている。」

9時を少し回ったころ、ロベルトと他の4人を乗せた飛行機はマナグアに向けて離陸した。離陸してすぐ飛行機は大西洋に墜落した。生存者はいなかった。ロベルトの遺体が見つかることはなかった。

彼が悲劇的な死を遂げる前、多くの人々はラテンアメリカの人々のために彼がしていたことをよく知らなかった。しかし今やどこの人も彼の勇敢で人道主義的な行為に深く感銘を受けた。ラテンアメリカとアメリカで、非常に多くの人々が真の英雄に最期のお別れをした。

1973年、ロベルトに敬意を表し多くの催しが行われた。彼は野球の殿堂入りに選ばれた最初のラテンアメリカの人になった。パイレーツはロベルトの背番号21を永久欠番とした。それは他のパイレーツの選手が今後その背番号をつけることはないということである。メジャーリーグ機構はスポーツマン精神や困窮している人々への貢献を理由に贈る球界最高の賞であるロベルト・クレメンテ賞を作ることによって彼に敬意を表した。

「彼は若者や球界のすべての人々、そして何より彼の祖国であるプエルトリコの立派な人々を鼓舞した。」/


2008年5月30日 (金)

VoyagerⅠ lesson6

ヴォイジャーⅠ lesson6

Patch Adams

君たちは今までに“笑いは一番の薬”という古いことわざを聞いたことがあるだろうか?これはもし私たちが陽気でいれば、私たちは健康でいられるということを意味する。最近まで、なぜ笑いが病気を治療する助けになるのか分かっていなかった。

現代の医学的研究によると、人が笑ったとき体はアドレナリンやエンドルフィンのような数種の化学物質を作り出す。それらは天然の鎮痛薬である。現在では、ますます多くの医師が新しい治療法として“笑い”を使おうとしている。しかし、ハンター・アダムズは医師たちが笑いの有用性を知るずっと前にそのようなユーモアセラピーを始めていた。

ハンターの子供時代は幸せではなかった。彼が16歳のとき、父親が急逝した。これよりハンターは大きなショックを受け、精神を患った。彼は治療を受けるためいくつかの病院に通った。

ハンターがそうした病院の一つの患者だったとき、同室の他の患者がいつも泣いてばかりいた。彼は非常に深刻な問題に苦しんでいた。彼を助けるため、ハンターはばかみたいに振る舞い、彼らは二人とも笑いに笑った。この笑いによって、その患者は自分の問題を克服するのはそう難しくないことに気付いた。彼はとても幸せに感じたし、ハンターもそう感じた。

ハンターはユーモアを使って他の患者を助け始めた。周囲の人々は彼のことを “パッチ”というニックネームで呼び始めた。ある日、パッチは彼はもう自分が病気に苦しんでいないことに気付いた。彼は考えた。「笑いが効いたんだ。私は他の人々にも私のように健康で幸せになって欲しい!」彼は退院し、医師になるため一生懸命勉強した。

1967年、ハンター“パッチ”アダムズはバージニア医科大学に入学した。彼はとても頭のいい学生だったが、教授の一人が彼を好きではなかった。パッチはおかしさとユーモアを愛し、大学でさえばかみたいに振舞った。その教授が彼に言った。「道化師になりたいならサーカスに入りなさい!」実際、パッチは道化師になりたかったのだが、また患者を本当に大事に思う世界で最もこっけいな医師にもなりたかったのだ。

彼が医学生だったとき、パッチは病院にいる重病の子を訪ねる機会があった。彼は彼女に元気でやっているかどうか聞いた。しかし彼女は答えなかった。彼はすばやく何か赤いものを鼻に付けて道化師のように振舞った。部屋はすぐに笑いで満たされ、そこにいた子供たちはみんな前より気分がよくなった。

パッチは他にもたくさんばかみたいなことをした。たとえば、彼は精神的な問題を患っている患者と一緒に転がり落ちたりした。彼は死ぬ前に狩猟に行くという夢を持った年を取った患者のために野生動物の格好さえして見せた。多くの患者はパッチの愛とユーモアを感じ、彼らの回復しようとする意志は強まった。

医科大学を卒業したあと、パッチはウェストバージニアに新しい種類の医療施設であるゲズンハイト・インスティトゥートを開いた。それ以来、彼は1,5000人以上の人々を無料で治療してきた。彼が病院を経営するのは簡単ではない。彼は寄付やボランティアの仕事に頼る。彼の夢は誰もが利用可能な大きくて無料の病院を作ることである。彼は新しい病院を楽しさとユーモアの満ちた場所にするつもりである。

医療施設で、パッチはいつも新しい患者一人ひとりと数時間話しをして過ごす。彼は言う。「多くの病人は孤独と恐怖に苦しんでいる。医師は薬だけでは彼らを治療できない。私は患者に笑って欲しい、そして笑いを通じて別な観点から問題を見て欲しいと思います。医師は病気だけでなく人々を治療するのです。」

1998年、ハリウッドは“パッチ・アダムズ”と呼ばれる映画を制作した。それは彼の人生の話に基づいている。その映画を見た人々は笑い、そして泣いた。パッチ・アダムズ医師は愛とユーモアは薬や現代技術と同じくらい重要だと信じている。彼の人生は私たちに笑いが本当に一番の薬だということを示してきた。/


2008年5月29日 (木)

VoyagerⅠ reading1

ヴォイジャーⅠ reading1

Rescuing His Master  ─主人を助ける─

ワシントン州のタコマのすぐ南にある玩具店の店主であるマービン・スコットは、午後10時ごろ仕事から家に帰ってきた。12月上旬のとても寒い夜で、とても強い風が吹いていた。

マービンは妻と湖を見下ろすダイニングルームで遅い夕食を取った。テーブルの上には暖かな気候のフロリダに住む孫たちから送られてきたかわいいクリスマスカードがあった。

「おや、何て素敵なクリスマスカードなんだろう!孫たちが健康でうまくやっていると知るのは本当にいいことじゃないかね?」マービンが妻に言った。

「本当にそうですこと。私たちも健康でいなくては。最近、あなたがずいぶんと精を出しているから少し心配なんです。」妻は真剣な顔で言った。実際、その夜、彼女はどういうわけかこれまでになくマービンの健康が心配だった。

マービンは60代だった。髪は白髪が目立つようになっていたが、彼は湖の周囲を散歩するのが好きな大柄でたくましい男だった。

マービンは天気が心配だった。急いで夕食を済ませたあと、夜11時近かったが、氷によって生じているかもしれないボートの損傷を確かめに小さな桟橋に行くことにした。湖に出る300フィートの坂を下っているとき、彼の犬のマックスが彼について来た。マックスは主人と走り回るのが好きである。とても夜も遅くて寒いにもかかわらず、彼はこの思いがけないお出かけをとても楽しんでいるようだった。

桟橋で、マービンは心配が正しいのが分かった。ボートの周りに氷が薄く張り始めていた。マービンは丸太を拾って氷を割るためボートを押そうとした。しかし彼は湖の水が桟橋を濡らしていたことを知らなかった。丸太で押したとき、彼は転んで桟橋に体を打ちつけた。彼は足にひどい怪我をし、冷たい15フィートの深さの水に落っこちた。

冷たい水の流れは彼を湖の中央へと引っ張り始めた。マービンは泳いで桟橋に戻ろうとしたが、彼にはあまり力がなくてすぐに水中に沈んだ。

急に、マービンは左腕が強く引っ張られるのを感じた。マックスだった。彼は冷たい水に飛び込んで、疲れきった主人をしっかりくわえていたのである。それから彼は主人を桟橋のほうへ20フィート近く引っ張っていった。マービンは桟橋のへりを懸命につかもうとした。彼は犬もまた主人を救助しようと努力して疲れきっているのが分かった。どうにかマービンはマックスを桟橋の上に押し上げた。しかしマービンの足はひどく傷ついていて彼は足を動かせなかった。彼は懸命に桟橋の上によじ登ろうとしたが、冷たい水と怪我した足の痛みとで気を失い始め、桟橋につかまる手がゆるんできた。不意に、暖かなダイニングルームの遅い夕食とクリスマスカードの光景が彼の脳裏に浮かんだ。彼は水中に落ち、また沈み始めた。

しかしまたもやマックスが救助に来た。彼はもう一度水に飛び込み、再び主人の腕をくわえて、今度は桟橋のほうへ約4フィート引っ張った。マービンは回復してマックスを桟橋の上に押し上げると、桟橋にしっかりとつかまった。けれども桟橋につかまる手がまたゆるんできた。マービンはもうそれ以上の力が残っていないことが分かり、自分は死んでしまうのかと思った。

マービンが3度目、最後に水に滑り落ちたとき、マックスは桟橋の上で足を踏ん張り、主人の腕をくわえて全力で彼を引っ張った。マービンはこの思いがけない助けにとても驚いた。彼は残った力を振り絞ってなんとか桟橋の上に体を乗せた。その場で彼は枯葉のようにじっと横たわった。

しばらくして、マービンは家に向かって移動し始めた。マックスは主人に寄り添い、持てる力のすべてを使って主人を助けた。男と犬は300フィートの坂をのろのろ進み、裏口近くの場所まで来た。マックスはそこで助けを求めてほえ、マービンはドアに石を投げて妻を呼んだ。

タコマ総合病院で、マービンは高熱を出し危篤状態にあった。彼は25日間、生死の境をさまよった。数週間、妻は彼が死ぬのではないかととても心配した。

彼はまた両足に大手術をしなければならなかった。医師は先に左足を手術し、その次に右足を手術することに決めた。医師らは両足を同時に手術すると彼が精神的ダメージを負うのではないかと考えたのだった。

半年後、翌年の夏、マービン・スコットはやっと玩具店の仕事に戻ることができた。彼は歩き回るのに助けを必要とし、これまで以上に注意して歩くようになった。だからまた家の周囲の湖畔で散歩を楽しむときは、マックスは主人を追い抜かないよう歩調をゆるめるのだった。/


2008年5月14日 (水)

VoyagerⅠ lesson5

ヴォイジャーⅠ lesson5

Sadako’s Strory

これはぼくらの叫びです

これは私たちの祈りです

世界に平和をきずくための

これらの言葉は広島平和公園にある原爆の子の像の下の石に刻まれている。それは頭の上に大きな鶴がある少女の像である。それは原爆の犠牲者である佐々木禎子さんをしのんで作られた。

禎子さんは原爆によって引き起こされた病気になった。原爆は194586日に広島に落とされた。彼女の物語は日本語だけでなく英語やスペイン語、ロシア語、そして他の多くの言葉で書かれた。多くの人々が長年にわたって彼女の物語を読んできた。

禎子さんは小学校に入学したときとても健康で元気いっぱいだった。彼女は走ることが好きでクラスで一番走るのが速かった。彼女は優しいお姉さんで弟や妹の面倒をとてもよく見た。しかしながら、戦争が終わってから約9年後、彼女の体に白血病の兆候が表れ始めた。彼女は病院に運ばれた。彼女にはもう走れる見込みがなかった。彼女はとても悲しんだ。

ある日、名古屋の一人の幼い少女が禎子さんの病院に折鶴をいくつか送った。折鶴を見たとき、禎子さんは母親の「鶴を千羽折れば願いがかなうんじゃ」という言葉を思い出した。禎子さんは自分の願いがかなうよう願い、折鶴を折り始めた。彼女は以前と同じくらい健康になりたかった。しかし195510月、入院して8ヵ月後、彼女は亡くなった。

彼女の死後、禎子さんのクラスメートが日本中から募金を集め彼女と原爆で亡くなったすべての子どもたちをしのんで像を作った。それ以来、それ以来、禎子さんの話とその像は日本の多くの人々を感動させた。

世界中の子供たちが禎子さんの物語を読んだ。1962年、海外からの最初の折鶴が広島に届いた。それらはカール・ブルックナーの『サダコは生きたい』を読んだオーストリアの子供たちによって折られたものだった。彼らは禎子が生きる望みを決して捨てなかったことに感動したのだった。

もう一冊の『サダコと千羽鶴』という本はエリーナ・コアによって書かれた。この物語では、サダコの夢の中で折鶴が生きている鶴になって病院の窓から飛び立っていった。コアのサダコは悲劇の犠牲者というよりはむしろ希望に満ちた強い少女だった。

コアの本はアメリカのニューメキシコ州の子供たちに強い影響を与えた。この州にある小さな町、ロスアラモスは原爆が生まれた場所だった。子供たちはこの本を読んで、広島にあるものと似た像を作ろうと決めた。彼らはアメリカ中の子供たちから募金を集めた。ついに199586日、ロスアラモスの近くの町であるアルバカーキに像が作られ、それからサンタフェに移された。それは平和の象徴になった。

禎子の物語はオーストラリアのアデレードにある英語学校にも大きな影響を与えた。この学校はいろんな国々の難民のためのものだった。ボスニア出身の生徒とクロアチア出身の生徒は、彼らの母国が長いあいだ戦争状態にあったため仲良くなれなかった。初めは彼らはお互いに机を離していたが、そのときコアの本を読んで平和について話し合った。その後、彼らは一緒に鶴の折り方を練習し始めた。ボスニア出身の少年が説明した。「僕たちはみな人間なのだ。サダコの物語を読んだあと、僕はもう敵を憎めなくなった。」

死後50年以上の間、禎子の物語はいたる所で人々に平和のメッセージを送ってきた。この原爆の犠牲者の物語は将来の子供たちにとっても重要であり続けるだろう。/


2008年5月 9日 (金)

VoyagerⅠ lesson4

ヴォイジャーⅠ lesson4

Information Everywhere  ─遍在する情報─

娘:お誕生日おめでとう、お父さん!はいこれ、プレゼント。

父:はるばる来てこんな素敵なプレゼントをくれてありがとう。

娘:マイクも本当に来たがっていたんだけど、今日はサマー・スクールに行っているの。ああ、たぶん彼ももうすぐ家を出てくると思う。

父:本当か?お前の後に彼が家を出るのか?彼は自分で家の鍵をかけられるのか?電気を消すのを忘れたりはしないだろうか?それに…

娘:お父さん、心配しすぎだって。あなたの孫はもう少しで10歳なのよ。それくらい自分で全部できるわよ。それに家のことはこの携帯で全部点検できるから。必要ならドアの鍵をかけたり電気を消したり、ここいて何でもできるのよ。

父:本当か?お前の家は何マイルも離れているのに。未来都市の生活みたいだ。

娘:ううん、私たちは、今、ユビキタスネットワーク社会に生きているの。

ユビキタスとは“遍在する”を意味する。ユビキタスネットワーク社会では、マイクロチップと呼ばれる非常に小さなコンピュータが、私たちが毎日使うものに埋め込まれる。これらのマイクロチップは脳のような働きをする。マイクロチップは、無線ネットワークを通じて情報や命令を送受信していろいろなことができる。マイクロチップは私たちの生活をより快適で便利にしてくれる。

いくつか例を挙げてみよう。チップは雨を“感じる”と、家の窓が自動的に閉まる。車は前方の小さな子供や犬を“見て”自動的に止まる。携帯電がすぐ近くの装置から情報を得てそれをディスプレイに表示することもある。救急箱はいつ・どうやって薬を飲めばいいか教えてくれるだろう。スーパーで牛肉や野菜のパッケージいつ・どこでその食品が生産されたかについての情報を与えてくれるだろう。図書館であなたが探している本は「ここにいます」と言うだろう。このようにして、携帯電話はユビキタスネットワーク社会でより幅広い役割を果たすだろう。

昔、人々が“IT”、すなわち情報技術のそのような発達をいつか見ることになろうとは信じがたいことだった。けれども人間は情報を送受信するためにいつでも技術を使ってきた。

ITの発達は洞窟壁画時代までさかのぼる。そこからITは手紙や書物、電話を通じて現在のコンピュータ時代へと発達したのである。手紙がなかったころは、人々は顔を突き合わせて、あるいは絵やのろしなどといった他の方法によって情報を与えていた。約2000年前に中国で紙が発明されたあと、時間と距離をこえて情報を伝えるために紙に書いた手書きの文字が使われた。

ITにおける最も重要な発達は印刷術である。1450年ごろグーテンベルグによって印刷術が発明されたあと、人々は以前よりも簡単に情報を得られるようになった。より多くの情報を得るにつれ、より多くのアイデアを思いつくことができる。したがって印刷術は科学技術の発達に重要な役割を果たした。もちろん、科学技術が現在の高度に発達したITをもたらしたのである。

21世紀現在、ちょうどITの新しい段階、つまりユビキタスネットワークス社会に入ったところである。科学技術の発達のおかげで、遍在する情報を手に入れ使うことができる。

ユビキタスネットワーク社会は素晴らしいものに見えるものの、その影の側面も体験しなくてはならないかもしれない。たとえばコンピュータネットワークに不法侵入しようとするハッカーはどこにでもいる。個人情報やお金さえ盗まれかねない。コンピュータウィルスを世界中にばらまこうとしている人もいる。加えて、コンピュータを通じて得る情報はいつも正しいとは限らない。身の周りの情報をどう扱うか知らなければいけない。

最近まで、ユビキタスネットワーク社会は夢に過ぎなかった。しかし現在、それが日常生活にどう影響するか考えることができる。ユビキタスネットワーク社会に関して今述べた例のいくつかはすでに起こっている。またさらに多くを予期することができる。近い未来、どこにでもあるとても小さなコンピュータを使ってユビキタスネットワークの恩恵を被るだろう。社会をより安全に、より快適に、より便利にするために何をすべきか私たちは考えるべきである。/


2008年5月 4日 (日)

VoyagerⅠ lesson3

ヴォイジャーⅠ lesson3

Make a Wish ─願い事をする─

クリスはアリゾナ州のフェニックスに住んでいた小さな少年だった。幼少期から彼は警察官になりたかった。テレビのお気に入りの刑事ドラマで見た強くて勇敢な警察官はいつでも彼の英雄だった。夢について話しているとき彼はとても幸せそうだった。しかし幼いクリスは白血病という重い病気を患っていた。彼は何年間も入退院を繰り返した。彼の母のリンダは自分の手でクリスを育てようと一生懸命働いた。彼女は彼の夢がかなって欲しいと思った。

ある日、クリスが5歳のとき、彼はトミーと出会った。トミーの妻はリンダの妻の親友だった。彼は合衆国政府に勤める特別捜査官だった。クリスは生まれて初めて本物の“警察官”に話しかけていたのでとても幸せだった。「僕はいつか警察のヘリコプターの操縦士になりたい。」彼は興奮してトミーに言った。「君はいい警察官になれるよ。君が加わってくれればいいな。」トミーは微笑んで言った。しかし後にトミーは妻からクリスの病気について聞き、ショックを受けた。彼はクリスが夢をかなえるチャンスはほとんどないことを知った。

2年後、クリスの病気は悪化し始めた。トミーはその知らせを聞き、「すぐに彼のために何かしてあげなくては。」と思った。トミーはアリゾナ警察の警察官である友人のフランクに電話し、クリスの夢について話した。トミーの話を聞いたあと、フランクも助けになりたいと思った。「たぶんパトロールのヘリに乗せてあげられるだろう。」彼はトミーに言った。

多くの警察官がクリスの夢をかなえてあげたいと思い、いくつかのことを準備をした。1980年、429日、彼らはクリスを病院まで車で迎えに行った。警察官はみな、彼を心から歓迎した。彼はおもちゃのパトカーをもらっただけでなく、オフィシャルバッジ、特別な制服などももらった。彼はパトカーで警察官と街中をパトロールし、警察のヘリに乗って市街上空をパトロールした。彼はとても興奮し、幸せだった。彼はもう病気の少年のようには見えなかった。また、彼の顔いっぱいの笑顔は警察官たちも幸せにさせた。

けれども3日間警察官として楽しんだあと、クリスの病状が悪化した。198052日、クリスは病院に戻った。しかし病床においてさえ、彼はとても幸せなままで、自分を誇りに思った。翌日、彼は安らかに亡くなった。アリゾナ警察は“小さな警察官”のために葬儀を執り行った。葬儀の場で、彼の母は彼らに息子の夢をかなえてくれたことに礼を述べた。「あなたたちの親切な行為のため、彼の痛みはいくぶん和らぎました。彼は死ぬ前とても幸せでした。」彼女は言った。

クリスが亡くなったあとフランクは考えた。「重い病気を患っている不運な子供がもっとたくさんいるに違いない。クリスにしたように彼らの願いもかなえてあげられないだろうか?」こうしてメイク・ア・ウィッシュ基金が立ち上げられた。

この基金は現在、外国の支部が多くある。トミーとフランクも今はこの基金で働いている。リンダもアメリカ各地で忙しく講演を行っている。基金が立ち上げられて以来、重い病気の子供の11万の願い事をかなえてきた。そうした願い事の中には、ハワイやディズニーランドなど行楽地に行くこと、テレビのCMに出ること、イルカなどかわいい動物と遊ぶこと、NBAのスター選手と会うこと、ツリーハウスをもらうことなどがあった。

基金のおかげで、多くの病気の子供たちが生きる意志を取り戻し、中には病気に打ち勝った子供もいる。すべてはクリスの夢から始まった。クリスが亡くなってから長いこと経つが、彼の満面の笑みは永遠に生き続けるだろう。/